東洋大学史ブックレット12
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高た嶋し米べ峰ほが就任しました。一〇月に高嶋学長は、政府が提示した「教育に関する戦時 いうまかかま「護国愛理ノ精神」にもとづき、単に在学生のみならず教職員が参加する全学一元的な組織であり、会長には大倉学長自身があたり、役員も学長が任命しました。なお一八年八月には、この東洋大学護国会を解散して東洋大学報国団が発足します。当初、東洋大学の独自性をもった組織として「東洋大学護国会」を結成したものの、政府の「学校報国隊」の編制に関する指示をうけ、名称を統一することにしたと考えられます。一八年六月に二期六年つとめた大倉学長が辞任し、七月に第一二代学長に出身者の非常措置方策」をうけ、文学部の五学科(哲学科・仏教学科・国文学科・支那哲学支那文学科・史学二科(国漢科・経国科)へと縮小し、その学生定員も半数に削減しました。一九年一一月には、第一三代学長に高た島し平へ三郎が就任します。科)を二学科(東洋哲学科・古典学科)へ、専門部の四科(倫理国漢科・国漢科・経国科・拓殖科)をいざぶろう 四 大学令と東洋大学(大正七年~昭和二〇年)39

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