に、『東洋大学創立五十年史』を出版しました。大倉学長は学園振興策の一環として、一三年四月に文学部に史学科を増設しておりますが、六月に教授会とのあいだの人事などをめぐる対立から、一六名もの教員が辞職する事件がおき、事態の収拾に追われることになりました(一六教授辞職事件)。一方で、自らかかげた新講座を創設するために、一四年四月に専門部に拓殖科(東亜経営科)をおきます。この拓殖科とは、大倉学長が就任した一二年九月に、時局に対応させて開講した科外講座の福利教養講座と満州講座をもとにしたものです。さらに一六年四月に専門部に経済教育科をもうけ、従来の文系学科にくわえて経済分野の学科をおき、学生数の増加をはかろうとこころみました。このようなとりくみもあってか、太平洋戦争がはげしさをました一八年には、学生が一五〇〇名近くまで増加したといいます。一六年四月に大倉学長は政府の指示にもとづき、自らかかげる護国精神の高揚策として、学生団体である「学友会」を改組し、東洋大学護国会を結成します。これは東洋大学の歴史 ―戦前編― 38
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