東洋大学史ブックレット12
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年史』資料編Ⅰ・上、六五一~六五二頁)。なお九年三月に、「私立」の冠称が廃止され、私立東洋大学を「東洋大学」とあらためました。境野学長による昇格運動がすすめられるなか、一二年五月にこの運動をめぐる紛ふ擾じ事じ件けがおこり(大正一二年の紛擾事件)、昇格運動は停滞を余儀なくされました。この紛擾事件とは、維持員から学長に一職員の解職を勧告せよとの申しでに端を発し、教授会はこれを承認しないまま対立することになり、ついに学長排斥運動へと展開していきました。この事件で東洋大学は文部省の介入をうけ、境野学長は学長としての認可とりけし命令をうけて退任するにいたりました。こののち八月に、顧問の岡田良平が第五代学長に就任します。なお九月に関東大震災がおこり、東洋大学も被害をうけています。一三年六月に岡田学長が文部大臣に就任することになり、中島徳蔵が学長事務取扱をつとめました。一五年二月に中島徳蔵は第六代学長に就任し、大学昇格運動を再開していきました(第二次大学昇格運動)。昭和二(一九二七)年四月に中島学長は、「東洋大学昇格基金募集趣意書」を発表し、広くようんん 四 大学令と東洋大学(大正七年~昭和二〇年)33

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