(~三六年七月)。その目的は、①インドの仏教遺跡を見学し、②欧米の大学教育と経営にとまりました。隈本は答案に「弑し虐」〔君主・父などを殺す〕とあることを問題視したのです。なおこのとき館主円了は、一一月一五日に第二回目の海外視察へでかけたばかりでした。一二月に文部省は哲学館に対し、中等教員無試験検定取扱の認可をとりけしました。このような文部省による哲学館への処分は、単に新聞・雑誌のみならず、学術機関からも批判がおこりました。翌三六年三月に専門学校令が公布され、文部省が公私立の学校への指導・監督をつよめますが、天皇を中心とする国体観念を国民に浸透させるために、みせしめとして強硬な姿勢をとったとする見方もあります。前述したように、三五年一一月に館主円了は、第二回目の海外視察にでかけましたを視察することであり、この旅行の報告は『西航日録』(三七年一月)として刊行されました。いぎやく 二 哲学館と哲学館大学(明治二〇年~三五年)15
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