び(一五歳)、七年に新潟学校第一分校(旧長岡洋学校)に入学(一六歳)、一〇年七月に京都名である円悟から一字をつぐ法名であり、得と度ど(一三歳)したときから使用されたようで、円了自身は一六歳から名乗ったそうです。円了の号は出身地である浦村の「浦」を、「甫ほ(はじめ)」と「氵(サンズイ・水す)」とに分けて甫ほ水すいといいます。円了が生まれた安政五年とは、日米修好通商条約がむすばれた年であり、また安あ政せいの大た獄ごがおきた年です。さらに福沢諭吉が蘭ら学が塾じく〔慶應義塾の前身〕を開いたのもこの年です。少・青年期の円了は、一〇歳のころに石いし黒ぐろ忠ただ悳のり(のちに陸軍軍医総監)の漢学塾に、一年後に旧長岡藩の儒者木き村む鈍どう叟に儒学を学びます。明治六年に高山楽群社で英語を学へおもむき東本願寺の教師教校で学びます。一一年四月に東本願寺の給費生として上京し、九月に東京大学予備門に入学(二〇歳)、一四年九月に東京大学文学部哲学科に入学します(二三歳)。在学中の一七年一月に三宅雄二郎(雪せ嶺れ)・棚橋一郎らと哲学会を創設しました。一八年七月に東京大学を卒業しますが(二七歳)、そのとき哲学科の卒んそつい7 らゆくんんいくいく 一 哲学館創立者井上円了(安政五年~明治二〇年)
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