創立者井上円了 【 6もらざららうんいうんう年)などの私立学校が生まれています。やがて一〇年代半ばになると、法律などの実大学を帝国大学(三〇年から東京帝国大学)にあらため、さらに四月に小学校令・中学校令・師範学校令を一挙に公布し、学校制度を体系化するとともに、明治政府が当初すすめてきた自由主義的な教育制度を大きくみなおし、国家統制をつよめる教育制度に転換していきました。このように政府によって初等から高等までの学校制度がととのえられていくなか、一方で福沢諭吉の慶應義塾(慶応四年)や新島襄の同志社英学校(明治八業と宗教(キリスト教・仏教)関係の私立による専門学校がもうけられ、また女子教育の必要性がさけばれ、女子の学校もできていきます。るなかで、哲学館の創立者井上円了は、安政五(一八五八)年三月一八日〔旧暦二月四日〕に、越後国三さ島と郡ぐ来ら迎こ寺じ村む字あ浦う村む(現・新潟県長岡市浦)の真宗大谷派慈じ光こ寺じに長男として生まれました。円了の幼名は岸丸のちに襲と常つねといい、「円了」という名は父の】わが国が鎖国から開国へ、幕末から明治維新へと大きくかわ東洋大学の歴史 ―戦前編―
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