の世界記録で優勝しました。この記録はアメリカのアルバート・マイケルセンの持っ4 ていた世界記録二時間二九分二秒を二分一八秒短縮した記録でしたが、同じ年の一一月三日に開かれた明治神宮体育大会で孫基禎によって二秒縮められてしまいました。しかし、池中は代表候補とされ、翌昭和一一(一九三六)年五月に行われる最終選考会に臨むことになったのです。ところが選考会目前に、中津に住む実弟が重態となり、急ぎ帰省した池中は、輸血を必要とする弟のために多量の採血を行い東京に戻ったのでした。練習を再開したものの体調は回復せず、そのまま最終選考会に出場、レース中に身体に異常をきたし棄権しました。これでオリンピック出場の夢はついえたのです。ベルリン大会のマラソンでは、孫基禎と日本大学の鈴木房重、明治大学の南昇龍が出場し、孫が金、南が銅メダルを獲得しました。池中は昭和一五(一九四〇)年に開催されるオリンピック東京大会に向け練習を重ねましたが、日中戦争が激しさを増してきたために東京は大会を返上。替わってヘルシ人物で見る東洋大学
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