東洋大学史ブックレット11
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以前に名誉講師(哲学館・私立東洋大学出身者で優れた研究・著述を出したものに与えられる称号)が贈られています。在学中に本所にあった黄檗宗五百羅漢寺で得度し出家、慧海と改名します。二十四歳の若さで同寺住職となりますが、翌年辞職します。この頃からサンスクリット語、チベット語を習い始め、後にはパーリー語をも学びます。同時に、日本の仏教研究が漢訳仏典のみを対象としていることに対して、サンスクリット語やチベット語による仏典の研究を提唱し、原典の入手のためにチベットに入国を志すようにな第一期二年級)に記されております。大正七(一九一八)年幼名は定治郎。堺市の樽職人の河口定吉の子として  生まれ、家業を継ぐために小学校を中退しましたが、学業への思いは断ち難く、夜学や私塾に通い、漢学や英語を学びました。明治二一(一八八八)年、上京して哲学館に入学したことが『哲学館講義録』(明治二二年、11

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