東洋大学史ブックレット11
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学科入学(大正一〇(一九二一)年)。しかし数ヶ月後に中退。当時、白山上の書店南天堂の二階には喫茶部があり、学生や若い文士たちの溜まり場となっていました。退学後の小野もよくここに来ては岡本潤や壺井繁治らと時を過ごしていたのです。ここから『弾道』を創刊するなど、小野の詩友と作詩活動は広がります。後に大阪に帰り、工場地帯に取材した作品を発表するなど、社会との接点を求めるようになりました。その一方で吉本興業文芸部に籍を置いて漫才作家を兼ねていました。この時、エンタツ・アチャコの漫才作家として売り出した秋田実を知ったのです。戦後は大阪文学学校を開設して、詩や児童文学作家などの育成に務めました。これこそが小野の目ざした文学の大衆化の一つの方向だったのです。もう一つの主張であった反戦についても、市民運動として指導し、あくまでも大衆とともにあることを求めました。また、帝塚山学院大学で教授を務めました。 8人物で見る東洋大学

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