済学部の約六倍を筆頭に、白山学部全体の平均でも約三・四倍という状況を迎えます。当時大学は、定員の二・五倍の教員を要していた訳ですから、この状況を改善できなかった最大の原因は、狭隘な白山校地の現状を背景とする施設の不足でした。しかも、昭和五〇年に交付された私立学校振興助成法は、助成の前提として、私立大学に収容定員の管理を明確に求めていましたし、文部省も昭和五〇年一〇月以降は、向こう五年間、学則定員の変更を認めない方針を打ち出していました。東洋大学が充分な国庫補助を獲得するためには、学則定員の改正を行い、学則定員を実員に近づける必要があり、それを実現するには、大学設置基準に見合う校舎、設備等の拡充以外に手立てはありませんでした。一方、大学立地政策は、「工業等制限法」所謂「工場等立地規制」と「高等教育計画」を根拠として行われていましたが、 昭和四〇年代までは他の政策との関連から実質的には機能していませんでした。近年の研究では、昭和五一年の『高等教育の計画 建築史から見た東洋大学の変遷42
元のページ ../index.html#46