東洋大学史ブックレット10
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後、マスプロ教育を巡る学生と大学との葛藤は深刻化し、遂に学内への機動隊導入が繰返されるという事態に立ち至ります。「くたばれ、マスプロ教育」が五号館の正面に掲げられた意味は極めて大きかった訳ですが、事態を回避することは出来ませんでした。大学側が当時その抜本的解決策として取組んでいたのは川越キャンパスへの教養課程の移転でしたが、これは実現しませんでした。昭和三九年一二月には、昭和四一年度の経営学部開設予定をも視野に入れて、創立八〇周年記念館、後の一号館の建設が開始され、昭和四一年三月に竣工します。写真⑱の建物です。それでも事態は改善されず、昭和四三年には遂にプレファブ校舎を建設して急場を凌ぐというところまで追いつめられます。この校舎を漸よやく解体することが出来たのは、実に昭和五七年のことでした。ところで、一号館の完成は、学生の導線も大きく変えました。多くの学生が、一号 う 建築史から見た東洋大学の変遷38

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