マスプロ教育の時代話を白山キャンパスに戻します。昭和三六年ごろから顕在化しはじめた、学生数の増加による白山キャンパスの教室不足は深刻化する一方で、昭和三七年二月、その対策として、白山校地運動場に新校舎の建設が開始されます。後に二号館と呼ばれることになるA号館は、当初、一年に五〇〇坪のペースで建設を続け、四年で二〇〇〇坪の建物を建設するという方針で始まりましたが、事態の深刻化から一年前倒しされ、昭和三九年二月に竣工します。昭和三九年と言えば、東京オリンピックの年です。こうして、教室数は増えつつあったものの、増加の一途を辿る入学者数には追いつかず、二号館竣工直後から、再び教室不足の解消に取組まなければならなくなります。昭和三九年の白山祭は、統一スローガンとして、二年連続で「人間を返せ」というテーマを掲げた上で、「くたばれ、マスプロ教育」の名の下に行われました。写真⑰は、その折の五号館です。当時の、授業の様子を、「東洋大学新聞」は「白山四学部建築史から見た東洋大学の変遷 36
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