東洋大学史ブックレット10
29/58

続ける為には、どうしても新制大学としての認可を受ける必要がありました。占領下で行われた大学制度改革に対応する必要がありました。これは喫緊の課題でした。当時、大学が再生の活路と考えたのは白山校地の売却でした。その資金で埼玉県の上福岡に広い校地を得て大学全体を移転しようと考えたのです。しかし、この計画は、アメリカ軍政部の該地解放許可が下されなかったために頓挫してしまいました。解決策がないまま、新制大学への認可申請の期限が迫ったため、とりあえず昭和二四年度は白山校地に大学を開設する方向で申請を行い、解放許可が下り次第移転するという極めて中途半端な計画で臨むことになりました。白山校地で授業を再開するためには、とりあえず校舎の改修が必要でしたが、この手の改修工事は、必然的に、短期的な使用を前提に、出来る限り広範囲を、限りなく廉価でという方向にならざるを得ません。そして、こうした発注姿勢は、しばしば瑕か疵しの温床となります。事実、後に建設会社との間で訴訟問題に発展するほどの劣悪な工事で、改修はしたものの校舎として 三 敗戦から高度成長期まで25

元のページ  ../index.html#29

このブックを見る