三二年の配置図から考えて、ハーフティンバー風の教場は新校舎の建設までに、旧講堂は図書館建設までに、夫そ々ぞ解体されていたことになりますが、昭和一二年まで残っていたとの記載もあるので、キャンパス内で移築されていたのかもしれません。さて、先ほども説明したとおり、煉瓦造の図書館は京北側から階段を登りきった場所よりもかなり奥まった所に建っていた様子なので、階段を登りきると、そこには広場があり、その広場に面して図書館があるという配置になっていたことになります。従って、新しい図書館と講堂は、その広場の夫々北西と南東に、この広場を会して向合う配置で建設されたことになります。記録のとおりなら、階段を登った正面に、旧図書館、右に新図書館、左に新講堂という配置であった訳です。明治三〇年に白山校地に移転し、煉瓦造の図書館が明治三三年に竣工して以来堅持されてきた、京北中学校を通り抜け階段を登って大学を象徴する広場に辿り着くという構成は、学徒の成長を平面的な奥行きとそれに続く垂直的な階段に託したもので れれ 二 白山移転から敗戦まで17
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