され早速校舎の建設が始まります。明治三二年、京北尋常中学校は中学校令に従って、その名称を京北中学校と改めます。明治三八年には、京北幼稚園が本郷区駒込富ものと推察されますが、この配置形式は、その後も白山キャンパスの最も重要な骨格になりました。写真⑥の建物、階段を登りきったところにやや奥まって建てられた二階建の煉瓦造が、明治三三年竣工の図書館です。階段と図書館の間には、広場が設けられています。この広場のやや右に講堂があったと推察されます。図書館に煉瓦造を採用した背景には、恐らく蓬莱町での火災があったからと推察されます。残念ながら、図書館も講堂も、昭和一二年には取り壊されてしまいました。その間、明治三一年一〇月に、京北尋常中学校が認可建築史から見た東洋大学の変遷写真⑥ 14
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