ます。例えば、中央の突出部分の二階中央には、上部に半円形のアーチを持つ窓が付8 けられていますし、その左右の縦長の窓は、上げ下げ窓と呼ばれる開口形式で、上半分が下に下半分が上に動く窓です。何方の窓も、近世までの日本建築には見られなかった形式です。開口部へのガラスの導入も大きな変化でした。また、一階と二階が同じ大きさの所謂総二階という形式も近代に入って一般化した建築様式です。書院造から西洋館へという変遷を今日から振り返ると、和風から洋風へという展開との認識になります。勿論、その様な認識は当時も存在する訳ですが、同時に、近代化の必然的な方向性と考えられてもいました。ここは大切な点なので、そうした考え方を象徴する事実を一つご紹介しておきましょう。明治二二年に、この校舎が落成した際に円了が行った「移転式の演説」で、彼は、欧米諸国を巡遊した結果、哲学館を改良し日本の大学と言うに相応しい組織とし、学門の独立と共に国家の独立を期したいとの意思を示した上で、哲学館の学問的な独立建築史から見た東洋大学の変遷
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