東洋大学史ブックレット9
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たる祖師の遺徳の民間に及ぶと及ばざるとに由らずんばあらず。夫れ叡山は伝教大師の開く所、野山は弘法大師の開く所にして、此両大師は前後殆ど其時を同うして世にあり。且つ共に非凡の豪傑なりと雖も、伝教大師は廟堂の高きに在りて民間に下らず。弘法大師は天下を周遊して専ら下民の教化に力を尽くせり。故を以て伝教の徳は人之を知らず、弘法の恩は今日に至りて忘るるものなし。今余の如きはもとより其才学と云ひ性行と云ひ此両大師の百分の一にも及ばずと雖も、余が願ふ所は伝教よりは弘法を学ばんと欲するなり〟とある。此精神が父の生涯を通じて流れて居る。即ち本堂は父の高野山である。依って本堂の参観者は父が民間の一処士を以て終始し、一平民の立場から力を国家の根本に致さんとしたる其の活きた精神を汲んで戴きたい。」(3)可視化による哲学の教えの汎用化哲学堂は、円了博士によって精神修養のための公園として整備されました。「西洋  二 哲学堂公園が目指したもの23

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