にさらされていた日本という国を、豊かで幸せな国にして行くことを目指していたと考えられます。このことの裏付けになるかと思われますが、円了博士が「高野山では参拝客がたくさんいたのに対して、比叡山では非常に少なかった。この差は、高野山を開いた弘法大師は諸国をまわって一般庶民に対する布教を熱心にやっていた一方で、比叡山を開いた伝教大師はそのようなことをやっていなかったことによるものである。自分は、この弘法大師の考え方や行動を見習うようにしたい」といった旨の所感を述べていたと、御子息の井上玄一氏が哲学堂案内のはしがきにおいて書かれています。「父が青年時代の所感に〝余比叡山に登るに終日山に在りて一人の参詣する者ありを見ず。然るに高野山に到るに毎日登山の人群れを成す。叡山は其地京都に近く高野山は遠く僻地にあり、而して人の参集の度此の如く異なるは何ぞや。是れ其山を開き2)哲学のテーマパークとしての哲学堂公園 22
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