了博士との関係についても当初のねらいとは別物になっているようです(表3、図3、図しかし、実学を重んじ、哲学の通俗化(普及)や哲学の実践(実行)を使命と考えていた進取の気性に富んだ円了博士であるならば、博物標本や考古資料的な扱いをされる哲学堂に対しては「死学」であると喝破し、「余資なく、優暇なき市井の人のため」の「活学」になりうる哲学堂の今日的なあり方を考えなさい、といってくれるのではないでしょうか。円了博士の御子息である井上玄一氏にしても、哲学堂の精神と主義を時代の変化の中で表現することを模索しており、大正一五年には東洋文明の国際化を目的とする研究所の設立や哲学に関する博物館・図書館の拡充を内容とする「哲学堂拡張私案」を、昭和一六年には万里の長城と北京の天壇をモチーフとした須弥山を模した形態の公園とする「哲学堂外苑計画」を発表しています。しかし、財政上の問題や戦争の影響などにより、実現には至りませんでした。4参照)。2)哲学のテーマパークとしての哲学堂公園 14
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