諸事倹約」と記していたといいます。断筆もしたので、三禁居士と自称していました。円了は、大変きまじめで、あまり冗談も言わない人だったのですが、何か旅行地の七不思議を造ってみたり、ネーミングをしたりすることが好きで、余り上手いとは言えそうもないことを書き上げて、楽しんでいました。断筆は、この規則では解禁されました。それはこれまで貢献のあった人びとに、勝海舟に頼んで揮毫してもらい、贈っていました。勝海舟も哲学館の応援になるならばと、「陰ながらの筆奉公」と称して、喜んでこれに応じていましたが、この年亡くなってしまったので、自ら揮毫することにしたのでした。この規則では、二禁にしたのですが、その後、二禁もやめて、三勤になったといいます。三禁をやめてしばらくして、円了の体調を気遣った卒業生が円了にお控えになったらと奨めたことがありました。円了は、山奥の田舎の馬車も通っていないところまで、教育勅語の教えを徹底しようとすれば、車にも乗れない、馬にも乗れない、旅宿 井上円了の全国巡講18
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