CAMPUS LIFE & CAREER 東洋大学とオリンピック

※この記事は2021年の東京オリンピック開催時に作成したものです

法学部法律学科 教授 谷釜尋徳

2016年夏、リオデジャネイロでオリンピック・パラリンピックが開催されました。オリンピックには、過去最大規模の東洋大学関係者(8名)が選手として出場し、地球の裏側で持てる力を存分に発揮しました。しかし、オリンピックにおける東洋大学勢の大躍進は、一朝一夕に成し遂げられたものではありません。ここに至るまでの、長きにわたる先人たちの激闘の記録があったのです。 2017年に東洋大学は創立 130周年をむかえました。この小論では、東洋大学のスポーツ130年史を「オリンピック」という切り口から振り返ってみましょう。東洋大学とオリンピックが織りなす物語のはじまりです。

1.井上円了時代の東洋大学とスポーツ
いまを遡ること約130年前、1887年に東洋大学の前身である私立哲学館が井上円了博士によって設立されました。第1回の近代オリンピックがアテネで開催されたのが1896年ですから、オリンピックよりも東洋大学の方が年上です。 哲学館が開かれた当初、講師陣の中に黎明期の日本のスポーツ界を牽引したとある人物が名を連ねていました。柔道の創始者で、アジア初のIOC委員として日本のオリンピック参加に尽力した嘉納治五郎その人です。『哲学館講義録』には嘉納による「倫理學(批評)」の文章が収められています。若き日の嘉納が哲学館生のスポーツ活動に関わった形跡は今のところ確認できませんが、東洋大学ははじめからオリンピックと遠縁を結んでいたと言えそうです。 『東洋大学百年史年表』(「東洋大学史紀要」2号)より哲学館時代のスポーツ関連の事項を拾い上げてみると、古くは1902年1月18日に、柔道場の開場式が挙行されています。また、翌1903年10月16日には、井上円了館主が欧米の視察旅行から帰国した歓迎行事として、王子の飛鳥山公園で「陸上運動競技会」が開催されたそうです。少し時代は下りますが、1919年には和田山哲学堂を会場に「剣道仕合大会」が行われたという記録もあります。年表に書き残されるのは史実のほんの一部であると仮定すれば、井上円了時代の私立哲学館や東洋大学の学生は、盛んにスポーツに興じていた可能性があります。 ここで、井上円了の著作の中から、スポーツや運動に関する記述を抽出してみましょう。1891年の「哲学の効用」(『天則』所収)には、「そもそも人は肉体と精神との二部より成るものにして、その肉体練磨の術としては運動あり体操ありて、以てその健康を保持するに足る。而して此外になほ精神練磨の法ありて之が強健を致すのすべなかるべからず。」という一文があります。スポーツ(運動や体操)は「健康を保持する」という点で効果が認められているものの、重要視されているようには読み取れません。 また、1917年の『奮闘哲学』では、「近来は西洋の娯楽が我国に入り来り、野球の如き大いに身体の運動を進むるものあれども、余り運動に過ぐるのもまた宜しくない。(中略)余り身体の活動に過ぎて、疲労を重ね、苦痛を感ずるようになっては娯楽の本旨にも戻ることになる。」とあります。ここでは、野球を事例に西洋由来のスポーツの存在に触れていますが、スポーツのやり過ぎによるマイナス面の方を懸念しているようです。 だからといって、井上円了がスポーツ嫌いだったというわけではありません。明治・大正期のスポーツは、まだ今日のように人々の生活に浸透していたわけではなく、世間ではその意義を疑問視する声も少なくなかったからです。むしろ、著作の中でスポーツを取り上げていることは、円了がスポーツという新たな時代の風を敏感に察知していた裏付けだと理解することもできます。
2.運動部の設立と躍進
東洋大学に運動部が設立されたのは、20世紀に入ってからのことでした。1906年改正の『同窓会規則』(4条6項)には、運動部として撃剣部(後の剣道部)・柔道部・庭球部(後のテニス部)を置き、練習をすることになったと記されています。しかし、実際にはほとんど活動していなかったようで、当時学生であった常光浩然が中心となって1912年に撃剣部・庭球部・弓術部(後の弓道部)を創設したそうです。同年、日本はストックホルムで開かれたオリンピックに初参加を果たしましたが、常光青年はこの出来事に多少なりとも感化されて運動部の設立を思い立ったのかもしれません。 1925年に独立した部となった剣道部は、夏期の合宿や地方遠征、他大学との交歓試合、各種大会への出場など、活発な活動を展開しました。とりわけ、1927年6月11~21日にかけて行われた「東北・北海道武者修行」は、各地で熱狂的な歓待を受け大成功を収めています。 剣道部と同じく1925年に独立した庭球部は、創設当初は京北中学校のコートを借りて練習に励んでいました。1927年に日比谷公園コートで挙行された全国大学専門学校軟式庭球大会では、島田・西寺ペアが決勝戦で国士舘大学を破って優勝しています。 上記の2部とは異なり、弓術部は1912年に誕生してから間もなく衰退してしまいます。1927年に有志が寄り集まって弓術同好会を興すも活性化しなかったために、1929年に新たに弓道部が結成されました。1933年には学友会の一部として独立し、同年の専修大学と拓殖大学との秋季三大学定期戦では優勝を果たしています。 1906年には組織化されていた柔道部が、学友会の部として独立したのは1925年のことでした。1927年9月には東北・北海道遠征を、1938年6月には東北・北陸遠征を行うなど、その盛況ぶりがうかがえます。 野球部は1924年に創部され、翌年に学友会の一部として独立しています。1926年には大学専門学校野球連盟に加盟しました。やがて、東洋大・國學院大・専修大・日本大・東京商科大(後の一橋大)・宗教大(後の大正大)によって東京新大学野球連盟が結成されます。現在の東都大学野球連盟の前身です。 1927年、競技部(後の陸上競技部)が誕生します。創設当初より部員数は50名を超えていたそうで、早くも同年の全日本選手権大会には砲丸投げの鹿野節が出場を果たしています。1933年には第14回の箱根駅伝に初参加しました。この時参加したのは、東洋大・早稲田大・慶應大・日本大・明治大・中央大・文理科大・法政大・日本歯科大・東京農大・拓殖大の11校で、本学は10位でゴールしています。 この他にも、昭和初期までに水泳部(1927年)・山岳部(1927~28年頃)・スケート部(1929年)・卓球部(1930年)・籠球部(1930年頃~後のバスケットボール部)・唐手研究会(1930年~後の空手道部)・拳闘部(1931年~後のボクシング部)・射撃部(1932年)・モーター倶楽部(1933年~後の自動車部)・相撲部(1940年)が相次いで産声を上げています。
3.“幻のオリンピアン” 池中康雄
今からおよそ80年前、オリンピック出場まであと一歩に迫った東洋大生がいたことは意外と知られていません。その名は池中康雄(1937年3月文学部卒)。当時の陸上長距離界を席巻したマラソンランナーでした。 1935年4月、翌年に迫ったベルリンオリンピックに向けて東京の神宮競技場で「ベルリンオリンピックマラソン代表候補挑戦競技会」が行われます。この大会で池中は当時の世界最高記録を2分以上更新する2時間26分44秒で優勝し、ベルリンオリンピック出場の最有力候補となりました。同年正月の箱根駅伝で、池中は5区山登りで区間賞を獲得しているので、ランナーとして好調の時期にあったことがわかります。 しかし、そんな池中を悲劇が襲います。大病にかかった弟のために、大量の献血をしなければならなくなったのです。この影響もあって、1936年5月に行われた最終選考会では途中棄権を余儀なくされ、オリンピックの出場権を逃してしまいました。 それでも池中は、オリンピック出場の夢をあきらめませんでした。ベルリンには行けませんでしたが、1940年に開催予定だった東京オリンピックの出場権をほぼ手中に収めます。オリンピック前年の1939年には、競技部時代の仲間3名と連れ立って青森~東京間の216里(約842km)の走破マラソンを試みるなど、過酷な練習に身を投じました。しかし……日中戦争の激化により東京大会は中止(返上)に追い込まれてしまいました。池中が“幻のオリンピアン”と呼ばれる由縁です。 卒業後、池中は郷里の大分県中津に帰って指導者生活をスタートし、長距離ランナーの育成に半生を捧げました。有名な「別府大分マラソン」は池中が創設した大会です。
4.1964年 東京オリンピックと東洋大学
今からおよそ半世紀前の1964年10月10日、東京オリンピックの開会式が行われました。開会式でのNHKの北出清五郎アナウンサーによる「世界中の秋晴れを全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます!」との名実況に、テレビの前の日本人の心は躍りました。 東京オリンピックは、地の利を活かした日本人選手たちが次々と大活躍したことでも知られています。女子バレーや体操競技をはじめ16個もの金メダルを獲得しました。金メダル獲得数で言えば、アメリカ、ソ連についで堂々3番目に喰い込んでいます。 この東京オリンピックと東洋大学との関係は、これまであまり語られてきませんでした。東洋大学関係者で初のオリンピック選手は、東京オリンピックで誕生しています。陸上3000m障害に出場した奥沢善二(1960年3月経済学部卒)です。本学卒業後は東京急行電鉄に入社して競技に励んでいた奥沢でしたが、オリンピック前年に膝を骨折する大怪我を負い、その影響で最終選考会でも落選してしまいます。しかし、奥沢は決してあきらめませんでした。開会式3週間前に行われた“敗者復活戦”で好成績を収め、見事に出場権を勝ち取ったのです。東京オリンピックの日本選手団は合計357人でしたが、奥沢はその最後“357人目”に出場を決めています。大会本番では世界レベルに歯が立たず予選敗退となりますが、東洋大学にとっては歴史的な一歩となりました。 東洋大学は東京オリンピックそしてオリンピック後に開かれたパラリンピックのサポート役を積極的に買って出ます。東洋大学短大の観光科の学生たちが代々木の選手村食堂で食券係や配膳サービスなどを担当し、一躍脚光を浴びました。同年8月18日の『読売新聞』には「みんなが日本の代表選手」という見出しで、オリンピック開催前の選手村食堂で東洋大生が活躍する記事が写真入りで掲載されています。また、自動車部は大会組織委員会からの依頼を受けて、選手や役員の選手村~競技会場間の車輸送を補助する役割を果たしました。いずれも現在の東洋大生にも継承すべき輝かしい“遺産”です。 この時、選手村の食堂に駆り出されたのは、東洋大を含め早稲田大・慶應大・明治大・立教大・女子栄養大・日本女子大などから総勢1,200人。皆、夏休みを返上して事前の訓練や本番の業務にあたっていました。また、食堂以外にも、村内の力仕事全般を日体大・国士舘大・日本大・順天堂大の体育系学部の学生が担っていたそうです。1964年の東京オリンピック成功の舞台裏には、多くの大学生が汗を流した現実がありました。 また、大学内では学生による東京オリンピックに向けた活発な行動も見られました。東洋大学体育会(田淵順一委員長)はオリンピック前年の1963年夏、東北遠征キャラバン隊を組織し、東北6県の県庁所在地に遠征を行います。その目的は、スポーツマンシップによる「道徳的心情豊かな人づくり」を訴えることや、東洋大学のPR活動でした。「美しい国土を、若い力で!」をスローガンに、大型バス2台・大型トラック1台・乗用車3台・ジープ1台・オートバイ1台を借り上げ、学生100名を超える大編成で、日中は各地の市街地を練り歩き、夜は吹奏楽部・軽音楽部らによる音楽公演が催されました。東洋大学のキャラバン隊の噂は瞬く間に広まり、一関では2,500人、山形では3,500人もの観衆が詰めかけたそうです。 東洋大学にとっての東京オリンピック(1964年)とは、選手の初出場はもちろん、選手村でのボランティアや東北遠征キャラバン隊の編成など、学生の秘めたるパワーを世の中に示すことにも繋がりました。それだけ、オリンピックの自国開催は当時の東洋大生の心を激しく揺さぶるものがあったに違いありません。
5.“初物づくし”のスピードスターあらわる
ここでは、グルノーブル大会(1968年)と札幌大会(1972年)の二度の冬季オリンピックに出場したスピードスケートの斎藤幸子(1969年3月経済学部卒業)を取り上げます。 北海道釧路生まれの斎藤は、スケートとともに陸上競技にも取り組んでいて、釧路江南高校時代には陸上短距離でインターハイに出場した実績を持ちます。アイスホッケーの選手だった父親と二人三脚で競技生活を送り、高校2年生でスピードスケートのオリンピック候補選手に選ばれてからは“スケート一本”に絞り、日本選手権で総合優勝を果たしました。 鳴り物入りで東洋大学に入学した斎藤は、その後も次々と好記録を生み出します。500mと1500mの2つの日本記録を引っ提げて、大学3年生でグルノーブルオリンピックに挑みました。スケート関係者からは「カーブだけが不安」と評されていましたが、その不安はオリンピック本番で見事に的中してしまいます。500mのレース運びは順調でしたが、最終コーナーでカーブを切り損ねて転倒し、コース外の柵に突っ込み、そのまま救急車で病院に運ばれました。幸い重症には至りませんでしたが、斎藤にとってはほろ苦いオリンピックデビューとなりました。 卒業後、三協精機に入社した斎藤は、いよいよ競技人生のハイライトを迎えます。25歳の時、二度目のチャンスが札幌オリンピックで巡ってきたのです。この時までに国内で無敵の強さを手にし、まさに“スピードスター”になっていた斎藤に対し、日本中がこの種目12年ぶりの入賞に期待を膨らませました。直前の全日本選手権でも6つの日本記録を樹立し、まさに絶好調。しかし、またも世界の壁が立ちはだかり、結果は500mで9位と惜しくも入賞はなりませんでした。 東洋大学関係者として、冬季オリンピックに初出場、女性初のオリンピアン、在学中にオリンピックに出場した最初の選手、など、斎藤幸子の本学のスポーツ振興に対する功績は計り知れません。東洋大学の歴史に名を刻んだ人物のひとりです。
6.入賞者・メダリスト登場の時代へ
ミュンヘンオリンピック(1972年)の頃になると、東洋大学から複数の選手が大会に出場し、好成績を収めるようになります。最初にオリンピックのメダル争いに名乗りをあげたのはレスリング競技でした。米盛商事所属の梅田昭彦(1970年3月経営学部卒)は、レスリングのフリースタイル48kg級で見事6位入賞を果たしています。 鹿児島県出身の平山紘一郎は1970年3月に東洋大学(法学部)を卒業後、自衛隊体育学校でめきめきと頭角をあらわし、ミュンヘンオリンピックにグレコローマンスタイルの52kg級代表として出場します。レスリング競技の日本選手でただ一人決勝リーグまで勝ち残った平山は、決勝戦で当時世界王者(メキシコ五輪金メダリスト)であったブルガリアのキロフと金メダルをかけて戦いました。世界の檜舞台で、平山はキロフ相手に積極的に攻勢に打って出ます。何度も背負い投げやタックルを仕掛けますが、守りを固めたキロフには通じずに両者決め手がないまま引き分けに終わります。その結果、決勝リーグでの僅か1点の差でキロフが金メダル、平山は銀メダルを獲得しました。東洋大学初のメダリストの誕生です。 次のモントリオールオリンピック(1976年)でも、同階級に出場した平山には金メダルの最有力候補として期待がかけられました。最終戦では世界王者のコンスタンチノフ(ソ連)を破りましたが、決勝リーグを通じた点差と対戦成績により平山は銅メダル。二大会連続のメダルを手にしました。29歳の平山は、このオリンピックを最後に現役引退を決意します。 モントリオールオリンピックでは、柔道の80kg以下級で井上英哲(1977年3月経営学部卒)が見事銅メダルを獲得しています。
7.華麗なるジャンパー モントリオールの空を舞う
座右の銘は「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」(芭蕉)。東洋大学文学部国文学科に提出した卒業論文のテーマは『奥の細道ー芭蕉と木曾義仲の接点ー』。当時のスポーツ界にあっては異色の“才女”として知られた陸上走り高跳びの曾根幹子です。 広島県出身の曾根幹子は、高校2年(上下高校)で日本選手権を制し一躍脚光を浴びます。高校3年の日本選手権で東洋大の鈴木久美恵とデッドヒートを演じ、1m69cmの高校新記録を出しました。 東洋大学に進学後、跳躍フォームをそれまでのベリーロールから背面跳びに変更し、さらなる飛躍を目指しました。大学4年の日本選手権では、日本人歴代2位の1m77cmを跳び日本記録まであと1cmと迫ります。実は、予選前日に痴漢に遭遇し、睡眠不足で体調を壊して臨んだ大会でした。同年秋の茨城国体に出場した曾根は、決勝で1m83cmを跳びようやく日本新記録をマークしました。翌年2月の世界室内陸上競技会で樹立した室内新記録(1m80cm)を置き土産に、曾根幹子は東洋大学を卒業します。 卒業後も、曾根の快進撃は止まりません。就職先に選んだのは大昭和製紙。陸上競技の名門チームです。同年11月の日本選抜陸上競技大会で自らの持つ日本記録を2cm更新(1m85cm)した曾根は、翌年に控えたモントリオールオリンピックの候補選手に抜擢されます。この時、曾根は23歳。すでに日本のエースに成長していました。 オリンピックに備えるべく、アメリカの大会を転戦する“武者修行”も順調にこなし、あとは本番の夢舞台を待つばかりでした。 「初めてなのと、日の丸が多かったので感激しました。」(『読売新聞』1976年7月19日朝刊)オリンピック開会式後の取材に対する曾根のコメントです。 1m74cmの長身が、華麗にモントリオールの空を舞いました。足の不調で満足に練習ができなかったこともあり、結果は予選敗退でしたが、東洋大学出身の女性がはじめて夏季オリンピックに出場した価値ある足跡がここに刻まれました。
8.燃える薩摩隼人 初の金メダリストへ
鹿児島県出身の宮原厚次(1983年3月経営学部卒)は、高校時代まで柔道に励んでいました。卒業後の進路に迷っていた矢先、東京に出てレスリングに転向する話が持ち上がります。そのスカウトを担当したのが、先に登場した本学初のメダリスト平山紘一郎です。 上京後は、自衛隊体育学校に所属して平山のもとでレスリングに没頭し、夜は東洋大学で勉学に励む多忙な日々を過ごしました。生来の才能もあってか、宮原はレスリングをはじめてわずか1年でグレコローマンスタイル48kg級の全日本選手権の覇者となります。その後、過酷な減量が自分の性格に合わないと見るや、52kg級に転向します。 1979年から数えて全日本選手権を破竹の6連覇。まさに選手としての絶頂期にロサンゼルスオリンピック(1984年)出場のチャンスが巡ってきました。逆境に強い“ケンカレスリング”が宮原の持ち味だったそうです。その信条が発揮されたのが、オリンピックの舞台でした。 決勝進出をかけた韓国の方大斗との一戦は、事実上の決勝と目されていました。開始直後から立て続けに攻勢を仕掛けられ、宮原は劣勢に立ちます。しかし、逆にこれが宮原の闘争心に火をつけました。宮原は一気に反撃に出るとたちまち逆転し、そのまま方を圧倒して初の五輪でファイナリストに名乗りを上げました。 決勝戦の相手はメキシコのアセベス。当時の世界レベルでは無名の19歳の新鋭です。試合開始1分ほどで、宮原はアセベスを背中から抱えあげ後方に投げる大技を繰り出しました。その後、ヒヤリとする場面はあったものの試合は宮原優勢で進み、ついに歓喜の瞬間が訪れます。東洋大学ではじめての金メダリストの誕生です。普段は試合後にあまり感情を表に出さない宮原でしたが、この時ばかりは両手を上げて跳びはね、マットの上を走り回って喜びを爆発させました。唯一、宮原の心残りは、当時のレスリング界で圧倒的な強さを誇った旧ソ連勢が、東西冷戦の影響でオリンピックをボイコットしていたことです。 ソ連勢を破ってオリンピック史上初の二連覇を達成すべく、宮原の挑戦は続きました。29歳で向かえたソウルオリンピックでは、当然ながら宮原には日本中から金メダルの期待がかけられます。初戦のフランスのロベール戦に圧勝すると、続くイランのカカハジ戦も難なく突破します。さらには、最大の強敵と予想されたソ連のイグナテンコを判定で退け、五輪王者の貫録を見せてV2に王手をかけました。 決勝戦の相手はノルウェーのロニンゲン。前回のロス五輪でも対戦し宮原が勝っている相手です。しかし、ロニンゲンは宮原のレスリングを徹底的に研究し尽していました。それまで冴えわたっていた得意技の“俵投げ”もロニンゲンの前には不発に終わり、序盤に奪われたポイントが響いてそのまま試合終了。こうして宮原のオリンピック連覇の夢は途絶えました。試合後のインタビューで宮原は「ロスの金より、よくがん張ったという実感があります。すべてを出し尽くして満足しています」(『読売新聞』1988年9月22日朝刊)と答えています。三十路を目前にしたベテランレスラーにとって、オリンピック連覇は体にむち打っての過酷な挑戦であったに違いありません。 ロサンゼルスで金。ソウルで銀。宮原厚次はオリンピック2大会連続のメダルを獲得し、先輩でありコーチでもある平山紘一郎に並ぶ偉業を成し遂げました。
9.日本競歩界のパイオニア 未来を切り拓く
もともとは中長距離の選手であった今村文男(1989年3月経済学部卒)が、競歩の世界に転身していったきっかけは高校時代にありました。千葉県の強豪八千代松陰高校で都大路での活躍を夢見ていましたが、ハイレベルな練習に体がついていかずに入学当初より故障を繰り返す日々を送ります。そんな中、リハビリの一環としてはじめた競歩でしたが、2年生の夏にはこれが専門種目となりました。 徐々に才能が開花し、東洋大学入学後は30km競歩で学生記録を更新するなど、国内トップ選手へと成長していきます。今村は、自身の学生時代を「三年のときの関東インカレで自分が競歩で三位になったことでチームが一部に残留できたことが一番の思い出です。」(『東洋大学報』132号、1994年)と振り返っています。 卒業後は陸上部がある会社に就職しますが、会社が経営難に陥りわずか半年で退社を余儀なくされました。しかし、今村は現役続行にこだわり、その後1~2年間は工事現場や焼き肉店のアルバイトで食い繋ぎました。午前4時起床で練習し、その後は夜までアルバイトという過酷な日々でしたが、今村は「自分の夢や目標を達成するなら、何とも思わなかった」(『読売新聞』2016年3月7日夕刊)と言い切ります。 地道な活動の甲斐あって1991年には富士通に入社し、同年東京で開催された世界陸上(50km競歩)で7位に入り、この種目で日本人初の入賞を果たしました。その後は度重なる海外遠征で力を蓄え、50km競歩の日本記録を6回更新、1997年の世界選手権で2度目の入賞(6位)を果たすなど、パイオニアとして日本競歩界の未来を切り拓いていきます。 今村のオリンピックデビュー戦は1992年のバルセロナ大会です。猛暑の中、50km競歩は過酷なレースとなり、結果は18位でした。 続く1996年のアトランタオリンピックは代表から漏れますが、2000年のシドニーオリンピックで二度目のチャンスが巡ってきました。「日本記録を更新し、世界に通じることを証明したい」(『読売新聞』2000年8月30日朝刊)と意気込みましたが、審判の判定との相性が噛み合いません。今村の長いキャリアの中でもほとんど指摘されたことがない歩型違反を二度もとられ、リズムを崩したまま36位でフィニッシュ。がっくりと肩を落としました。 2004年4月11日、アテネオリンピック選考会の日本選手権が今村文男の引退レースとなりました。約20年間の競技人生に別れを告げた今村がセカンドキャリアとして目指したのは、指導者の道でした。大学院にも通い、先進的なトレーニング理論を確立すると、多くの選手が今村の元からオリンピックの舞台へ巣立っていきました。2012年に日本陸連の競歩部長に就任してからは、鈴木雄介選手(富士通)の世界新記録樹立や荒井広宙選手(自衛隊体育学校)の2016年リオオリンピックでのメダル獲得(日本人初)など、日本勢の大躍進を演出してきました。 東洋大学からは2012年のロンドンオリンピックに西塔拓己(2014年3月経済学部卒)が、2016年のリオオリンピックに松永大介(2017年3月理工学部卒)が、それぞれ在学中に競歩の日本代表として連続出場しました。先輩今村文男が蒔いた種は、いま、母校で確かに芽吹いています。
10.“アマチュア野球軍団” 最後の挑戦
もともと、近代オリンピックは“アマチュア”のみが参加を許された大会でした。初期のオリンピックはいわば上流階級のための社交場で、スポーツに限らず金銭を稼いで生活する労働者階級(プロフェッショナル)は排除されていました。この“アマチュア規程”の境界線は、やがて「スポーツで報酬を得ているかどうか」が基準となり、オリンピックは1980年代までプロスポーツ選手の参入を認めていません。その後、スポーツ界における商業主義の台頭とも関わって、オリンピックが徐々にプロ選手にも門戸を開くようになった結果、いまでは大半の種目でプロの参加が認められています。 オリンピックにおいてプロ野球選手の出場が解禁されたのは比較的遅く、2000年のシドニー大会からです。つまり、1996年のアトランタオリンピックの野球日本代表は、“最後のアマチュア軍団”であったことになります。アマチュアといっても、この時の日本代表は後のプロ野球界を支える人材で溢れていました。福留孝介、松中信彦、井口忠仁、谷佳知など、プロ野球選手と比較しても遜色のないそうそうたる顔ぶれです。代表メンバー20名のうち、実に10名がオリンピック後にプロ野球の道に進みました。 その豪華メンバーの中に選抜されたのが、捕手の黒須隆(1992年3月経営学部卒)と内野手の今岡誠(1997年3月法学部卒)です。浦和学院高出身の黒須は、東洋大学時代より強打の捕手として注目を集め、卒業後は日産自動車で活躍していました。一方、今岡はPL学園高を出て東洋大学に入学するや否や、1年時の春季東都リーグ戦で4番バッターとしてデビューを果たすと、勢いそのままホームラン王と打点王の二冠に輝いています。 アトランタオリンピックの舞台では特に今岡の活躍が目覚ましく、大会通算打率は4割3分、予選リーグのイタリア戦と準決勝のアメリカ戦で2試合連続のホームランを放ち、日本代表チームの躍進に大いに貢献しました。 オリンピック決勝戦の相手は、当時アマチュア野球最強を誇るキューバでした。序盤に大量失点を喫しますが、主砲松中の満塁ホームランなどで互角の展開に持ち込みます。最後は力の差を見せつけられ、9対13のスコアで敗戦しますが、日本代表は堂々の銀メダルを獲得しました。 このほかに、団体競技では1992年のバルセロナ大会にローラーホッケーの福田等(1986年3月経営学部卒)が、1998年の長野冬季大会にアイスホッケーの三浦孝之(1989年3月経済学部卒)が東洋大学からオリンピックに出場していますが、メダルを手にしたのは黒須と今岡がはじめてです。 オリンピックが終わると、黒須は日本代表選手としてさらなる飛躍を遂げ、1997年のインターコンチネンタルカップではキューバを破って悲願の世界一に輝きました。今岡は東洋大学卒業後、プロ野球の道を選び、阪神タイガース・千葉ロッテマリーンズで首位打者やゴールデングラブ賞を獲得するなど、2011年まで活躍しています。 1996年のアトランタ大会は、オリンピックにおける最後の“アマチュア野球最強決定戦”でした。決勝の舞台を経験した黒須と今岡は、一つの時代が終わりを迎える最後の瞬間に立ち会ったことになります。
11.ハードパンチャー世界を制す
奈良県出身の村田諒太(2008年3月経営学部卒)は、幼い頃は水泳や陸上競技に親しんでいました。中学生でボクシングと出会い、南京都高校に進学すると2年時には高校タイトルを総なめにします。高校3年時には、全日本選手権に出場し準優勝に輝きました。 東洋大学時代には、数々の国際大会に出場しメダルを獲得します。この頃、当時K-1世界王者であった魔裟斗と幾度となく公開スパーリングを行い、そのハードパンチャーぶりには魔裟斗も一目置いていたそうです。2007年、翌年に迫った北京オリンピックへの出場を目指しますが、惜しくも叶わず一度は現役を退きました。 卒業後は東洋大学の職員として勤務する傍ら、体育会ボクシング部のコーチとして後輩の指導にあたります。2009年に現役復帰すると、その年から全日本選手権3連覇を達成しました。 2011年の世界選手権では見事銀メダルに輝き、夢のオリンピック出場の切符を手中に収めます。村田の階級であるミドル級での五輪出場は、日本人として16年ぶりでした。 同じく東洋大学卒業生の須佐勝明(2008年3月法学部卒自衛隊体育学校)とともに挑んだはじめてのオリンピック。ロンドンの地で村田諒太が躍動しました。第2シードで出場した村田は、2回戦でアルジェリアのラフーを判定で下すと、準々決勝ではトルコのキリッチに逆転勝ちしメダルを確定させます。続く準決勝ではウズベキスタンのアトエフにリードを許すも、後半の猛攻によりまたも逆転勝利。金メダルに王手をかけました。 決勝戦の相手はブラジルのファルカンでした。村田を十分に研究していたファルカンの巧みなボクシングに苦しみながらも、終了間際に強烈な“右”を顔面に見舞い判定(14-13)で退けました。村田が悲願の世界王者の座についた瞬間です。オリンピックでのボクシング日本勢としての金メダル獲得は、東京オリンピック以来48年ぶりの快挙でした。半世紀ぶりの偉業達成に日本中が沸き、村田は一躍時の人となりました。当時、東洋大学の学生部職員であった村田の元に多くのファンが詰めかけたほどです。 この年、東洋大学は創立125周年。村田諒太の世界制覇は母校の節目の年に花を添えました。 ロンドンオリンピックの後、村田はプロボクシングの世界に身を投じることを決意しました。アマチュアボクシング界のヒーローは、プロボクシングの世界チャンピオンとなるべく挑戦を続けます。2017年10月22日、ついにその時が訪れました。両国国技館で行われたタイトルマッチでフランスのエンダムをTKOで破り、村田諒太はWBA世界ミドル級王者に輝きます。オリンピックとプロボクシング両方の制覇は、ミドル級では史上初の快挙でした。
12.新時代の到来
2016年のリオデジャネイロオリンピックには、東洋大学は多くの選手を送り出します。現役学生は萩野公介(2017年3月文学部卒・競泳)、内田美希(2017年3月経営学部卒・競泳)、松永大介(2017年3月理工学部卒・競歩)、桐生祥秀(法学部4年在学中・陸上100m)、ウォルシュ・ジュリアン(ライフデザイン学部3年在学中・陸上400m)がリオの地を踏みました。また、東洋大学の卒業生では石川末廣(2002年3月経済学部卒・マラソン)、北島寿典(2007年3月工学部卒・マラソン)、設楽悠太(2014年3月経済学部卒・陸上10000m)が出場しています。この8名と合わせて、指導者としても平井伯昌(法学部教授・競泳日本代表ヘッドコーチ)、土江寛裕(法学部教授・陸上日本代表短距離コーチ)がオリンピックに参加し、日本勢のメダル獲得に大いに貢献しました。 一つの大学から一度のオリンピックにこれほどの数の選手が出場することは極めて稀で、東洋大学としても史上最大規模のオリンピアンを輩出した大会となりました。 特筆すべきは、現役東洋大生として出場した選手の多くが好成績を収めたことです。競泳の萩野公介は400m個人メドレーで金メダル、200m個人メドレーで銀メダル、4×200mフリーリレーで銅メダルを獲得し、世界のトップに君臨しました。同じく競泳の内田美希は4×100mフリーリレーで8位入賞を果たし、20km競歩に出場した松永大介はこの種目で日本人初の7位入賞という偉業を成し遂げています。桐生祥秀は期待された100mは29位に沈んだものの、4×100mリレーでは第3走者として銀メダルを獲得しました。 リオデジャネイロオリンピックの東洋大学勢の大活躍は、上昇気流に乗る本学のスポーツ界を象徴するような出来事でした。  そして2017年9月9日、桐生祥秀は福井県で行われた第86回日本学生陸上競技対校選手権大会の男子100m決勝で、ついに9秒98をマーク。日本人初の9秒台スプリンターとなりました。 2018年2月の平昌冬季オリンピックでは、東洋大学からはアルペンスキー女子回転の安藤麻(当時:法学部3年)が代表の座を射止めました。日本のアルペン女子の五輪出場はトリノ大会(2006年)以来12年ぶりの快挙で、東洋大学勢としてはスキー種目で初のオリンピアンの誕生です。 まさに“新時代”が到来しました。
13.TOYO SPORTS VISIONの誕生
これまで東洋大学は数々のオリンピアンそしてメダリストを輩出してきました。しかし、オリンピック・ムーブメントの推進という点では、東洋大学は他大学の後ろ姿を追いかけてきたと言わなければなりません。前述したように、1964年の東京オリンピックでは数多くの学生が選手村に入って活躍しましたが、大学を挙げて組織的かつ計画的にオリンピックに臨んだわけではなかったからです。 こうした過去から学び、東洋大学では2020年のオリンピック・パラリンピック東京大会に向けて周到な準備を重ねてきました。2014年6月の組織委員会との連携協定締結を受けて、翌年には学内に「2020東京オリンピック・パラリンピック連携事業推進委員会」を発足させ、オリンピック・ムーブメントを担う組織的基盤を築き上げたのです。 2016年6月、東洋大学がスポーツを通じて豊かになろうとする宣言として、“TOYOSPORTSVISION”が打ち出されました。その基本理念には、「スポーツを『哲学』し、人と社会と世界をむすぶ。」と高らかに謳われました。具体的なビジョンは、[1]スポーツを「する」人「みる」人「ささえる」人の育成、[2]スポーツを通じた「グローバル人財」の育成、[3]スポーツに関する「学術的アプローチ」の展開、[4]スポーツを通じた「地域連携」の促進です。 およそ130年の歩みを経て、東洋大学とスポーツは井上円了博士より脈々と受け継がれてきた『諸学の基礎は哲学にあり。』との建学の精神に包まれて融合し、オリンピック・パラリンピックの自国開催をきっかけに“TOYOSPORTSVISION”として結実したのです。 以上、東洋大学とオリンピックの関係史を紹介してきました。私立哲学館時代より醸されてきたスポーツを愛好する風土は、1964年の東京オリンピックをきっかけに幅広い種目にわたるオリンピアンを生み出す環境を育み、それが今日の躍進に繋がっているのです。こうして歴史を遡る時、私たちは先人たちのたゆまぬ努力の蓄積が東洋大学の“いま”を創造していることに気が付きます。東洋大学で培った“哲学する心”はアスリートの血となり肉となり、国際舞台に打って出ようとする原動力として130年の時を越えて継承されてきました。 近代オリンピックは、スポーツを通じた人間教育・国際交流・世界平和を理想とする壮大なムーブメントです。ここに、種目別の世界選手権とは一線を画する価値があります。IOC(国際オリンピック委員会)のバッハ会長は、オリンピックに集うアスリートを「最高の親善大使」と表現しました(『毎日新聞』2014年2月8日夕刊)。東洋大学出身のオリンピアンが、これからも“親善大使”としての役割を全うし続けることを願って止みません。
【主な参考文献】
  • 『東洋大学新聞』東洋大学新聞学会、1926年~
  • 『第18回オリンピック競技大会報告書』日本体育協会、1965年
  • 『第十八回オリンピック競技大会公式報告書 上・下』オリンピック東京大会組織委員会、1966年
  • 『東洋大学報』東洋大学、1969年~
  • 「東洋大学百年史年表」『東洋大学史紀要』2号、東洋大学百年史編纂室、1984年
  • 『図録 東洋大学 100年』東洋大学、1987年
  • 『東洋大学百年史 通史編I』東洋大学、1993年
  • 『東洋大学百年史 通史編II』東洋大学、1994年
  • 『東洋大学百年史 資料編II・下』東洋大学、1994年