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Vol.2 ためらいながら未来は

News Letter Vol.2 
新しい観光のパラダイム
ためらいながら未来は
東洋大学 国際観光学部教授 市田せつ子
2020.10.07
 近代ツーリズムの父と言われたトマス・クック(1808-1892)が創業した旅行代理店「トーマス・クック・グループ」が昨年(2019)の秋、破産申請を行い、長い歴史を閉じた。昔はパックツアーでなければ、ヨーロッパに出かけるとき、神保町の書店までクックの時刻表を買いにいった。ペーパーバックの赤い表紙には単色のデザイン、本体も薄い紙に駅名と発着時間などが印刷してあるだけなのだが、行きそうにもない、でも知っている遠くの駅名をそこに見つけてはわくわくしたものである。もちろん、今はネット検索ですむようになっているので、この時刻表はずいぶん前に廃刊しただろうと思っていたが、2013年まで発行していたそうだ。
 実はこの会社の盛衰にも時刻表と同じようなタイムラグがある。この会社の創業はクックが1841年にアルコール抜きのレクリエーションをするために鉄道を使って500人程度を近郊へ連れて行ったことを端緒とする。しかしこの頃、キリスト教の伝道師でもあったクックは、産業革命と都市化で出現した労働者階層のより良き余暇のために活動していた。出身地を離れる移動は、これまで会えなかった人に会うチャンスである。それは視野を広げ、身分による偏見を乗り越え、それにより社会が宥和するだろう、と訴えた。これに携わることの経済的な側面は副次的であったという。それが息子のジョンの時代に庶民を相手にするよりはむしろイギリスの帝国主義の政策を一部は請け負うようになり、イギリスの旅行代理店の代名詞になるほどの成長を遂げた。そして、3代目にあたるクックの孫2人の経営者は第1次世界大戦を無事に切り抜けたものの、1928年に同社を売却する。節酒や禁酒という方針は既に息子ジョンの時代に消えていた。ではその後の91年間、同じ看板に創始者の息吹の何を残そうとしたか。
 トマス・クックが企画し引率した、イギリス内で初めての遠距離のツアーは1846年のスコットランド旅行である。風光明媚の場所を訪れただけではなく、「スコットランド人」と話すこともプログラムの一部だった(ただ現われなかったという)。イギリス海峡を初めて渡ったのは1855年のパリ万国博覧会へ行くため。続いてドイツのライン川とネッカー川を蒸気船で上り、ストラスブールからパリに上る周遊旅行を企画した。宿はクックが下船するごとに探した。めいめいでも見つけた。こうして水上や鉄路に始まった交通革命は近代観光の長い時間を経て、会えない人を会えるようにしたし、通信の発達は現地に着いてからホテルを探す手間をなくしたが、変わっていないこともある。クックやツアーの参加者たちは旅行について盛んに手紙や手記や日記に書いた。人と会わない時間を埋める新しいコミュニケーションも促進したのである。旅行中の移動は場所の変化だけではなく、そこにいない人との時間のずれを味わうことでもある。或いは自分や自分の愛しき人たち、そして今生きているこの世界の「未来」や「過去」に出会うことでもある。コロナ下の現在は、高速化を推し進め「今」に集中した近代観光から、豊かな時間を取り戻す機会になるのではないか。  

ドイツ・ネッカー川畔のハイデルベルク

ネッカー川の畔、マールバッハに詩人シラー(1759 – 1805)が生まれた。所持した卓上時計(1800年製作)の絵はがきに以下の言葉が添えられている。「時の歩みは三つある。ためらいながら未来はやって来る。矢が放たれるように今は飛び去る。永遠に静かに過去は立ち止まる」。(シラー博物館所蔵)

市田せつ子

東洋大学国際観光学部 教授
専門分野:観光経営
研究キーワード:ドイツ文学・文化、観光の歴史、旅行と文学

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