東洋大学
創立者
没後
100周年
井上円了
「哲学教育」に
情熱を注いだ生涯
東洋大学創立者 没後100周年
井上円了
「哲学教育」に情熱を注いだ生涯
東洋大学の創立者として知られる井上円了の没後100周年を迎えた。その偉大なる業績とともに、円了の教育理念を受け継ぐ同大学の今について、自らも哲学者で円了の研究者でもある竹村牧男学長に話を聞いた。

インタビュー写真・竹村牧男・東洋大学長

【東洋大学 学長 竹村牧男氏】

たけむら・まきお/1948年生まれ。東京大学文学部印度哲学科卒業。博士(文学)。専門分野は仏教学・宗教哲学。文化庁宗務課専門職員、三重大学助教授、筑波大学教授を経て、02年から東洋大学教授。文学部長等を歴任し、09年より現職。著書に『井上円了 その哲学・思想』(春秋社)、『入門 哲学としての仏教』(講談社現代新書)他多数。

真理は哲学にありと確信

インタビュー写真・竹村牧男・東洋大学長

【東洋大学 学長 竹村牧男氏】

たけむら・まきお/1948年生まれ。東京大学文学部印度哲学科卒業。博士(文学)。専門分野は仏教学・宗教哲学。文化庁宗務課専門職員、三重大学助教授、筑波大学教授を経て、02年から東洋大学教授。文学部長等を歴任し、09年より現職。著書に『井上円了 その哲学・思想』(春秋社)、『入門 哲学としての仏教』(講談社現代新書)他多数。

---- 円了が「哲学」を教育の礎にしたのは、なぜか。
安政5(1858)年、新潟の寺院に生まれた円了は、10代から漢学、洋学を学び、思想遍歴を重ねてきました。儒教やキリスト教も学びますが、そこにも真理を見出せません。その後、東京大学文学部哲学科に入学し、ドイツの哲学者・ヘーゲルの思想を学び、感銘を受け、ついに「哲学」に真理を見出します。さらに幼少時から身近にありながらも顧みなかった仏教を「西洋哲学」の目で見直した際、そこには西洋哲学と同等の真理がすでにあることを発見しました。その頃から、哲学と仏教が円了の思想の基盤となります。当時の日本は西洋列強からの圧力などで不安定な情勢にあり、日本の文化や学問、宗教を守りつつ近代化するためには民衆の知性向上が不可欠、高度な学問が必要だと「哲学」を基礎とした教育に身を捧げることを決意します。そして、大学卒業から2年後、29歳の若さで本学の前身となる「私立哲学館」を創立しました。
円了にとって「哲学」とは、ただ哲学者の思想を学ぶ抽象的・観念的な学問ではありません。身体の健康のために運動が必要なように、健全な精神のためにも、物事の本質に迫り深く掘り下げて考える「思考の訓練」が必要という考えがありました。
写真・現在の白山キャンパスの地に移転した当時の校舎

現在の白山キャンパスの地に移転した当時の哲学館

---- 学校創立後、どのような活躍を見せたのか。
円了による学校創立の趣意書には、「余資(よし)なく優暇(ゆうか)なき者に教育の機会を」とあります。学ぶ意志があっても、経済的に学べない人々に講義をまとめた「講義録」を送り自宅で学習する、通信教育の先駆けともいえる「館外員制度」を取り入れました。この教育の機会を万人に開放する志は、今日の本学においても学費を抑えたイブニングコースなどへと引き継がれています。
創立の翌年には、単身で世界を一周する視察旅行へ出発。海外旅行が難しかった時代に、アメリカ、イギリス、ドイツ、インド、中国などを約1年かけて回りました。この旅で最も感銘を受けたのは、どの国も自国の伝統を大切にし、「独立の精神」を有することでした。旅が契機となり、日本の学問や文化の発展を訴え、さらに哲学館を大学へ発展させる計画を表明します。14年後、再び海外視察に出かけた円了は、帰国後にイギリスで学んだ社会教育活動、「民衆のための教育」の実践を宣言します。

民衆に尽くした教育者であり、「妖怪学」のパイオニア

写真・井上円了の著作「妖怪学講義」

円了の著作『妖怪学講義』

---- 円了が実践した「民衆のための教育」とは。
明治39(1906)年、47歳で学長を辞し、かねてから実践していた社会教育活動に専念します。その一つが、日本各地を巡って講演を行う「全国巡回講演」です。服装から持ち物まで質素な旅を続け、演題は精神修養、哲学、宗教、教育、迷信、妖怪など多岐にわたり、約5300回の講演で、130万人以上が円了の思想に触れました。これを受け継ぎ、現在の本学においても、講師派遣事業や公開講座など、全国の方々に生涯学習の場を提供しています。
哲学の普及に尽力した円了ですが、「妖怪学」のパイオニアとしてご存じの方も多いと思います。当時流行していた「こっくりさん」の謎を解明したのも円了でした。この学問は奥深く、民衆の間で蔓延していた迷信を打破し、先進的な近代国家への道を拓く力もありました。円了は、このような民衆のための活動に身を捧げただけでなく、膨大な著述を行った研究者であり、明治期を代表する「知と行動の巨人」といえるでしょう。

諸学の基礎は哲学にあり

写真・現在の東洋大白山キャンパス(正門付近)。奥に見えるのが井上円了像

現在の東洋大学白山キャンパス。正門を入ると井上円了像が出迎え、その背後には井上円了記念博物館がある

---- 円了の理念に基づく「建学の精神」とは。
「諸学の基礎は哲学にあり」を筆頭に、「知徳兼全」「独立自活」を掲げています。「諸学の基礎は哲学にあり」には、単に哲学を学ぶだけでなく、常識や先入観を捨て、物事を深く考え判断し、行動できる人間になってほしいという想いが込められています。「知徳兼全」は、知性と徳性を兼ね備えた人材を育成する、つまり、学力のみならず「人間力」も育てること。「独立自活」は、自学自修の精神と相通ずるもので、自ら社会の課題を見出し、その解決のために主体的に行動する姿勢を身に付けることです。この3つの建学の精神は情報過多社会の中で、自分の頭で考え判断し、真理や真実を見抜く力として、現代にこそ必要なものです。
---- 円了の精神をどのように教育に活かしているのか。
現在、5つのキャンパスに、13学部46学科、大学院15研究科36専攻を擁し、学生数が3万人を超える大規模総合大学へと成長しました。その中で実践していることは、基盤教育(一般教養)の中に「哲学・思想」という枠組みを設け、哲学関係の科目群を置いて一つは必修としています。また、文学部には、哲学科や東洋思想文化学科など哲学を専門とする学科がありますが、他学部においても、それぞれの専門領域に応じた哲学関連科目を充実させ、建学の精神を伝える自校教育にも取り組んでいます。また、円了は3度の海外視察を行うなど、早くから国際化の重要性を理解していました。今日の東洋大学でもキャンパスの「国際化」を推進する改革を展開しています。平成26年に文部科学省による「スーパーグローバル大学創成支援」に採択されたことも大きな弾みになり、英語による授業の拡大、海外研修やインターンシップの充実、留学生の派遣・受け入れの増加なども鋭意進めております。この取り組みを採択後の10年間に着実に実現していくことで、世界でも評価される大学になると思っています。

他者のために自己を磨き、奮闘する

---- 東洋大学が目指す人材育成とは。
深刻な問題が横たわる地球社会の現状に対して、自ら判断しながら行動することで、社会に貢献できる人材の育成に尽力していきたいです。現在、「他者のために自己を磨く」「活動の中で奮闘する」を、円了の精神を継いだ「東洋大学の心」として掲げています。哲学を学び、世のため、人のために活動する。哲学とは、「行動すること」でもあります。「活動はこれ天の理なり、勇進はこれ天の意なり、奮闘はこれ天の命なり」。円了の最晩年の著書『奮闘哲学』の一節ですが、学生たちには、現代にも通じるこの真理を胸に、勇進、奮闘してほしいと願っています。

「井上円了」とは

井上円了
明治の哲学者・教育者であり、東洋大学の創立者としても知られる井上円了。大正8(1919)年に死去し、今年で没後100周年を迎えた。明治期、日本が欧化主義に流される中、円了は民衆一人ひとりの知性を高めて国を豊かにするために「哲学」によるものの見方や考え方の育成が不可欠とし、東洋大学の前身・私立哲学館を創立。また、海外渡航が難しかった時代に、3度の世界長期視察を敢行し、世界で得た知見を民衆の教育や社会改革へと活かした。近代日本の黎明期に哲学教育の礎を築いた精神と情熱は、グローバル化し、ボーダーレスとなった現代社会を生き抜くための示唆に富み、改めて見直すべき価値あるものとして注目が集まっている。

井上円了の軌跡

  • 安政 5(1858)年
    現在の新潟県長岡市の寺院の長男として生誕
  • 明治10(1877)年
    京都・東本願寺の教師教校英学科に入学
  • 明治14(1881)年
    才能を見込んだ東本願寺から東京留学を命じられ、23歳で東京大学文学部哲学科に入学
  • 明治20(1887)年
    29歳で「私立哲学館」を創立。文京区湯島の麟祥院で授業開始
  • 明治21(1888)年
    世界一周する海外視察の旅に出る。以後、同様の海外視察を2回行う(計3回敢行)
  • 明治23(1890)年
    全国巡回講演を開始。亡くなる年まで講演の旅は続けられる
  • 明治26(1893)年
    「妖怪研究会」を創立。この年から『妖怪学講義』を刊行
  • 明治30(1897)年
    「哲学館」を現在の東洋大学白山キャンパスの地(文京区白山)へ移転
  • 明治37(1904)年
    「哲学館」から「私立哲学館大学」へ
  • 明治39(1906)年
    47歳で大学を辞し、社会教育活動に専念する。「私立東洋大学」に改称
  • 大正 8(1919)年
    講演中に倒れ、61歳で死去

 ※2019年11月2日(土)東京新聞朝刊 掲載記事を全文転載
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