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<平成26年度>井上円了哲学塾 公開講座 第8回が開催されました

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E8「日本文化の特質とその可能性」

2015(平成27年)1月10日(土)16時20分より、本学8B11教室において、井上円了哲学塾リーダー哲学講義第8回が開催されました。

講師は鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授、日本倫理学会会長の竹内整一氏で、「日本文化の特質とその可能性」というテーマでご講演いただきました。塾生・学生、および一般の公開講座申込者で聴講者数は約180名でした。

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竹内氏はまず、夏目漱石『こころ』の中に出てくる「淋しみ」を取りあげられ、西洋近代化を経た日本において、さまざまな個の独立志向がしだいに浸透し、近代自己として確立されていく中で、古い明治の影響を受けながら近代に生きる漱石の「淋しみ」について指摘されました。また他方そうした近代自己は、個人主義の流入あるいは西洋近代そのものの受容過程のなかで、やがて自己の内部の視座、あるいは内面の沈潜といったものと深まっていったと述べられました。

また、「さびしい」という言葉については、漢字の「淋」は、水がしたたるという意味で、もともとは「さびしい」という意味は持たず、「淋」を「さびしい」意味に用いるのは天地を感情で受けとめる日本独特の用法だと指摘され、「さびしさ」を示す他の漢字「寂」「寥」「寞」などが、宀の「いえ」の中での人のすくなさ、まばらさ、など、基本的に人間事象の「さびしさ」を指しているのと対照的だと指摘された。

次に「さびしさ」の両義性について、日本語の「さびしい」には「生気や活気が失われ、錆びている状態」であるとともに、「もとの生気、活気ある状態を求める気持ち」という両義的な意味をもっていることを様々な短歌や俳句を例にして説明されました。また「人間は無窮より生まれ、忽然として無窮のおくに往ってしまう」と言うことも重要で、大和言葉の「あわれ」は「見事な神の働き」(「あっぱれ」)を示すとともに、「ああ+はれ」で「ああ」と思う気持ちの意味もあると説明されました。

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さらに竹内氏は、岡倉天心のいう、不完全なものに対して崇拝しようという美意識は、日本文化の美の捉え方の伝統で、幽玄とは、言葉に表れぬ余情、姿にははっきりみえてしまわない雰囲気であり、世阿弥の「秘すれば花」とはすべてをあからさまに示さないことが花を示すこと、また「わび」「さび」は欠如を尊ぶこと、さらには「なまめかし」とは不十分に見えるが実は十分に成熟していること、であると、つながる考え方だと話されました。

最後に、「有限性をどう現実に可能なものとして引受けられるのか」という課題が示され、その解答として「有限を楽しみ、ゆたかに受けとめること」、また「理性だけでは駄目で、心や体を使って感性とともに考える」ことが重要であると講演を結ばれました。