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第1ユニット ワークショップ

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第1ユニット主催ワークショップ「西田幾多郎の宗教哲学――キリスト教と仏教の立場から――」

第1ユニットワークショップ

7月11日(水)に、東洋大学白山キャンパス5号館5201教室 において、第1ユニット主催ワークショップ「西田幾多郎の宗教哲学――キリスト教と仏教の立場から――」が開催された。アメリカ・ルーター大学准教授で当センター客員研究員のゲレオン・コプフ氏、日本大学教授の小坂国継氏、ルーテル学院大学非常勤講師の石井砂母亜氏の三名を提題者とし、西田幾多郎の宗教哲学を巡る熱のこもった議論が展開された。

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まず、仏教学者として知られるゲレオン・コプフ氏が、仏教、とりわけ禅の立場から西田の「平常底」という術語を問題にした。西田が「平常底」という言葉を用いるとき、臨済録や無門関の「平常心是道」、「平常無事」、などといった言葉と結びつけていた。コプフ氏は禅仏教における「平常」という言葉の文脈を明らかにしながら、西田の「平常底」という用語の使用法の特徴を浮かび上がらせた。コプフ氏によれば、禅語録は重層的構造をもつものである。禅語録は、実際に行われた禅問答、それに対する語録編纂者の解釈と詩、この問答を引用する別のテクストや実践、といったものが重層的に重なり合うものである。西田はこの重層的な間テクスト性に注意を払わず、自らの非二元論的体系の構築のために、自らの文脈に引き付けながら「平常底」という語を使用したのである。しかし同時に、仏教的概念を学術的な哲学の体系の中に組み入れたりその逆も行ったりしたこと、あるいは非二元論的体系を構築したことなど西田の大きな功績を忘れてはならない、ということも指摘された。

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次に、石井砂母亜氏が、西田哲学とキリスト教の問題を、特に愛の問題を中心に論じた。まず石井氏は、西田哲学における宗教の意味、キリスト教を問題にする意義に関して簡単に説明し、次いで「私と汝」という問題を通して、キリスト教的なアガペーの問題を論じた。西田にとって私と汝の関係とは、決して一つになることのできないものが応答し合うという関係である。しかも、応答すべき汝は、「昨日の私」まで含むものであり、私は常に応答を迫る汝の呼び声にさらされ続けている。責任(Responsibility)とは応答(response)可能性のことであり、それ故、私は応答を迫り続ける汝の呼び声に対して無限の責任をもつことになる。しかし、有限な人間が無限の責任を果たすことはできないため、私は原罪としての罪意識をもつことになる。この罪意識の中での人間の再生可能性として、神のアガペーが考えられることになるのである。神が自らを無化する中で、人間は神の愛を通して他者と結びつく。こうして、西田の絶対無は、キリスト教のアガペーと切り結びながら、人間の根底を見つめる宗教哲学として展開されるのである。

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最後に、小坂国継氏が、西田幾多郎が展開した宗教哲学について概観する発表を行った。小坂氏は、西田が自らの宗教観をはっきりと打ち出した三つの著作を概観しながら、西田の宗教哲学を特徴づけた。まず西田の初期の代表作『善の研究』の宗教観を概観すると、その特徴として、汎神論に共感的であること、道徳の延長線上に宗教が位置付けられること、悪の問題に対する積極的な言明が少ないことなどが挙げられる。一方、中期の代表作である『叡知的世界』では、道徳的自己の破たんを通して宗教が考えられ、道徳と宗教の断絶が強調される。ただ、自己の側からの自己否定としての宗教という側面が強い。西田の死後に発表された遺稿論文『場所的論理と宗教的世界観』では、我々の自己の自己否定と、超越者の自己否定が相即する「逆対応」が打ち出される。さらに、仏教が「内在的超越」、キリスト教が「超越的内在」と考えられるが、西田は「内在的超越のキリスト」を構想したという点で注目に値するということが強調された。

三人の提題の後、提題者間の質疑、フロアを交えた質疑が行われ、活発な討議が展開された。平日の16時30分開始という時間設定にもかかわらず、たくさんの聴講者が来聴し、非常に盛況なワークショップとなった。