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第2ユニット 第1回「ポスト福島の哲学」講演会

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第1回「ポスト福島の哲学」講演会(ジャン=ピエール・デュピュイ、一ノ瀬正樹)

zentai 2012年7月4日(水)、東洋大学白山キャンパス2号館スカイホールにて、国際哲学研究センター主催の国際講演会「ポスト福島の哲学」が行なわれた。講演者は、東京大学教授の一ノ瀬正樹氏およびスタンフォード大学教授のジャン=ピエール・デュピュイ氏である。この講演会は、2011年3月11日の大地震・大津波、それに続く東京電力福島第一原発における大事故以降の状況のなかで、「哲学」は何をどのように語るべきかを考えなおす機会として、国際哲学研究センターが継続的に開催している企画の一環であり、昨年12月に開催した国際Web会議「ポスト福島の哲学――知の巨匠に尋ねる」を継続するものである。一ノ瀬氏はイギリス哲学を主な研究領域とする哲学研究者であるが、「3.11」以降、とりわけ日本における放射性物質の「低線量被曝」がはらむ問題に関する議論をリードする論者でもある。この度の講演は「放射能問題の被害性――哲学は復興に向けて何を語れるか」と題された。デュピュイ氏は、フランス理工科大学校(エコール・ポリテクニーク)名誉教授および現在はアメリカのスタンフォード大学教授として、科学哲学、政治哲学、倫理学など多岐にわたる領域で活躍する哲学者である。特に「チェルノブイリ」以降、「破局(カタストロフィー)」についての哲学的な考察を展開しており、フランス放射線防護原子力安全委員会研究所(IRSN)倫理委員会委員長も務めるなど、この問題に関する哲学的議論の第一人者であると言える。この度の講演題目は「破局的な出来事を前にした合理的選択」であった。デュピュイ氏の講演については、日本学術振興会特別研究員の石川学氏が通訳にあたった。
 
 講演会は村上勝三センター長による冒頭のあいさつから始まった。そこでは、原発事故から1年数カ月が経過した現在において、一方で「安全」を強調する声が高まるなか、他方でしかし、とりわけ次世代を担う子供たちへの「危険」に対するおそれが残り続け、故郷を離れることと残ることとのあいだにつねに葛藤が生じているという現状に触れられたが、これは「ポスト福島の哲学」の企てがつねに出発点とすべき現状であると言えるだろう。その後、渡名喜庸哲研究助手による両講演者の紹介のあと、まずは一ノ瀬氏から講演がはじめられた。

ichinose 一ノ瀬氏は、「哲学は復興に向けて何を語れるのか」という問いに正面から向き合い、その答えとしては「問題点の整理」と「考える視点の提示」のみであること、しかし哲学はその長期的な意義に賭けるべきであるという認識から出発する。問題点を整理する際の軸としては、災害一般について長期的な視点から考える「形而上学的アプローチ」、今回の東日本大震災という特定の災害について短期的に考える「認識論的アプローチ」の二つが考えられるが、今回の講演は、後者のアプローチを採用し、とりわけ今回の福島第一原発事故による「放射能問題」に焦点を合わせ、その「被害性」はいかなる内実のものかを検討するものであった。その上で、一ノ瀬氏は、原発に対する是非、放射線による健康被害についての判断等に関し、論理的に考えうる選択肢を一つずつ検討していき、まず放射線による健康被害の問題は結局「程度の問題(a matter of degrees)」として捉えることが議論の前提となると論じた。「放射能問題」の「被害」の内実は何かを考えるには、混同されがちなさまざまなレヴェルの議論を解きほぐし、論点を整理することが必要になる。それを踏まえ、「放射線被曝という被害」と「放射能を避けることによる被害」とを峻別すると、この「被害」の内実とは、まさしく「放射線被曝によって癌死する」かもしれないことへの「不安感」、「不条理感」、「不信感」といった「不の感覚」にあることになるだろう。だとすれば、この「不安感」を拭い去る解決の方策の検証が必要になる。ここでもまた、科学的データの信頼性、予防原則、目標リスク(放射線被曝)と対抗リスク(目標リスクを避けるために生まれるリスク)の区別、「道徳的ジレンマ」の問題など、「放射能問題」を考えるにあたって論ずべき点を整理することによって、一ノ瀬氏は、最終的に、「安全」を求めすぎることによって生じかねない「対抗リスク」、避難という行動がもたらすさまざまなリスクについて科学的に分析・調査していく必要性と、それでも災害が起きてしまった場合に対する「高潔性」・「覚悟」の必要性を喚起することで論を閉じた。

dupuy 一ノ瀬氏の講演が、氏の言う「認識論的アプローチ」に基づいて、現行の「放射能問題」を直接の対象としたのに対し、続くデュピュイ氏の講演は、「破局的な出来事」をわれわれが把握する際の「時間」の捉え方を考察の糸口とする、「形而上学」的なものだったと言えよう。とはいえ、問題となっているのは、われわれが通常有している態度そのものを考えなおすということである。われわれは「破局的な出来事」がいつか起きるということを知ってはいるが、いつ起こるかわからない、あるいは起こらないかのようにふるまっている。この態度こそが分析の対象となるのである。この問題を考えるためにデュピュイ氏は、フランスのとある数学者が提案した「フラクタル」という概念を援用しつつ、次のような事例をとりあげる。バブルの崩壊の直前には、投機を繰り返し、利益を上げるという同じパターンの行為があたかも無限であるかのように膨張的に継続するが、しかしある時点で「破局的な出来事」が到来する。ここからデュピュイ氏が強調するのは、「破局的な出来事」とは、それが起きてしまってから、後から振り返ることでしか認識できない、という構造である。このような「破局的な出来事」を把握できるためには、われわれの持つ時間認識そのものを考えなおさなければならない。通常われわれは、未来とは現在に行なった選択の帰結であるかのように考えている。その場合、将来起こるであろう「破局的な出来事」に対し「前もって見通すこと」、「予期」し「予防」することが重要とされる。しかし、このような時間認識の限界は、「想定外のものに対する備え」という矛盾した言い回しに顕著であろう。デュピュイ氏がこれに対して提起するのは、現在ではなく、すでに「破局的な出来事」が起きてしまった後の未来に身を置き、そこから過去を振り返るという、フランス語の文法用語でいう「前未来」的な時間認識である。この時間認識は「予定の時間」という円環モデルで示された。それは現在と未来を単線で捉えるのではなく、未来に起こりうる「破局的な出来事」の後に身を置いてみることから出発し、そこから時間を逆行し過去へと戻り、当の出来事を回避するために、現在の行為によって未来へと影響を及ぼすというかたちで再び未来へと向かうという時間性である。

 二つの講演の後、コメンテーターを務めた研究助手の渡名喜によりそれぞれの議論のまとめがなされ、さらに若干の質問が提起された。両講演は、それぞれ主題や手法をまったく異にしているように見えつつも、一ノ瀬氏が提起した「認識論的アプローチ」と「形而上学的アプローチ」という区別にある程度対応しているだろう。一ノ瀬氏は前者によって「現在」を重視し、それに対する哲学の「実践的」な役割に注意を向けるのに対し、デュピュイ氏はむしろ「未来」を問題にし、それを捉えるための「理論的」な問題を検討するからである。こうした整理から、まず一ノ瀬氏に対しては、「放射能問題」においては、「未来」が、とりわけ「未来」における苦しみこそが問題となるのではないか、また大惨事に際して求められるとされる「高潔さ」はいかなる射程を有するのかといった問いが提起された。デュピュイ氏に対しては、逆に、その「理論的」ないし「形而上学的」アプローチによって「破局的な出来事」が一般的なものとして捉えられることになるとすれば、「破局」の特異性(この場合、「フクシマ」の特殊性)をどのように考えるべきかという問いが提起された。こうした提起を受け、両講演者からそれぞれ適切な回答をいただき、いっそう実りのある議論が展開された。

 開場となったスカイホールには、平日の夜にもかかわらず、学内外から80名を超える方に参加いただいた。最後に行なわれた質疑応答においては、各講演に対する具体的な質問はもとより、たとえば現在福島の人々が置かれている具体的な状況を踏まえた質問など、きわめて示唆に富む議論がさらに提起された。時間の都合から質問を希望する参加者すべてにマイクを向けることができず、反省すべき点も残ったが、とはいえ予定時間を大幅に超過するほど活発な議論が行われたと言える。

 なお、両者の講演原稿については、『国際哲学研究』別冊1「ポスト福島の哲学」に掲載されている。