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第2ユニット 第5回「ポスト福島の哲学」講演会

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第5回「ポスト福島の哲学」講演会(高橋哲哉・村上勝三)

 2013年3月12日(火)、東洋大学白山キャンパス6号館6217教室において、国際哲学研究センター第2ユニットの連続講演会「ポスト福島の哲学」の今年度第5回目となる会が開催された。講演者は、東京大学総合文化研究科教授の高橋哲哉氏、当センターでこの連続講演会を主導してきた村上勝三センター長の2名、司会を第2ユニット・プロジェクトリーダーの山口一郎研究員が務めた。

murakami 2011年に設立された当センターは、設立当初から「ポスト福島の哲学」というテーマを研究課題の一つに掲げ、継続的に国内外から哲学研究者や関連する活動を行なう方々との議論を重ねてきた。「ポスト福島の哲学――経過と課題」と題された村上勝三の講演は、前半部において、これまでの議論の経緯を一つずつ紹介し、後半部において、それを受け、とくに以下の3つの論点を課題として提示した。一つは、「である」(「存在」)と「べきである」(「当為」)の分離についてである。村上は、この問題をめぐる哲学史上の議論を概観しつつ、存在と真理と善とが一つになる形而上学的場の確立の必要性を説いた。第二に、このことに関連して、絶対的価値の問題が挙げられる。村上は、放射能問題に関しても、価値相対主義の立場に立つことが権威への盲従につながることを厳しく非難し、絶対的価値を共有する手立てを構想することがポスト福島の哲学の役割の一つであると述べた。第三の課題は技術と主観性との関連である。村上は、ハイデガーの技術論に関して、そこでのデカルト解釈が誤りであることを指摘し、さらにハイデガーの言う人間による技術の制御不可能性および技術の自己増殖は「私」を喪失することにつながることを述べた。それに対し、「私」を取戻し、欲求・欲望を制御することで、技術の成果を統御する、具体的に言えば技術を廃炉に向けて統御する断固たる意志を有する必要があると主張した。

takahashi これに続いて、高橋哲哉氏から、福島原発事故以降において「責任」および「犠牲」の問題を哲学的に考えることをめぐる講演があった。3.11以降、依然として低線量被ばくをはじめさまざまな問題があるにもかかわらず「風化」の現象が確認される。また、事故当初の「恐怖の感覚」、これの忘却が福島に対する「封じ込め」につながっているのではないか――こうした現状を踏まえ、高橋氏は、思弁を弄するのではなく、原発事故を引き起こした「責任」、それによって引き起こされた「犠牲」について考察することこそが「ポスト福島の哲学」の課題であると主張する。なかでもドイツの哲学者で反核運動を理論的にも実践的にも主導したギュンター・アンダース、ナチスの犯罪を裁くアイヒマン裁判において「悪の凡庸さ」と言う概念を提示したハンナ・アレント、戦争責任とりわけ「罪」の問題を論じたカール・ヤスパース、こうした哲学者らの思想を足掛かりにして、原発事故に対する「責任」の問題に切り込んだ。アンダースは、アウシュヴィッツとヒロシマ以降の世界において、人間の知覚、想像力、責任感覚を凌駕するかたちで技術が肥大化し、人間をかり立てるシステムを形成していることを「技術全体主義」と呼んだ。アイヒマンがそうであったように、そのなかでは人間も一つの部品として、凡庸なかたちで「悪」を可能にするシステムである。だが、ナチスの犯罪が単に悪の凡庸さのみならず実際の悪意があったのに対し、原発の問題はこの「悪意」が見当たらないように見えるだけにいっそう困難な問題である。こうした困難を引き受けつつも、ヤスパースが行なったように法的罪、政治的罪、道徳的罪といったかたちで「罪」の問題を峻別することで、原発問題に関する刑事責任を問う理路を確立する必要があるという主張がなされた。

discussion 両者の講演に続く質疑応答では、講演テーマであった「責任」の問題はもとより、日本社会特有の「システム」の問題、憲法改正の問題、「個人」の確立の問題、民主主義的実践の問題など、多岐にわたる鋭い質問がなされ、それに対して両講演者から示唆に富んだ応答がなされた。平日の夜の開催にもかかわらず、会場には多くの来場者があり、予定時間を大幅に超過する内容の濃い議論の場となった。

 なお、村上勝三の講演の模様は、こちらから見ることができる。