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哲学館大学から東洋大学へ

哲学館大学から東洋大学へ

2014年3月4日更新

哲学館大学から東洋大学へ

私立哲学館大学を私立東洋大学に改
称し、資産を財団法人に寄付すること
を公にした稟告

哲学館の大学昇格、修身教会の設立、哲学堂の建設と、1903(明治36)年から1904(明治37)年にかけて精力的に活動を続けていた井上円了ですが、その一方で哲学堂事件の余波により精神的に追い詰められていました。

先にも紹介したように、円了は事件で不合格になった学生の問題が解決しない限り、教員免許の無試験検定の認可は受けないことを決意していました。しかし、無試験検定は私立大学の大きな特色の一つであり、事件以降、学生数が減少したこともあって、講師や校友(卒業生)の間には検定の再出願を望む声も少なくありませんでした。

1904(明治37)年10月21日、校友有志が無試験検定再出願の決議書を円了に提出します。翌22日には同窓会臨時大会で再出願が決議され、28日には3人の講師が連名で再出願に関する「勧告書」を円了に提出します。円了はこれらを受け入れませんでしたが、学内は円了支持派と反対派に二分されていきます。

この学内の分裂は円了をひどく苦しめ、円了は次第に心身に変調をきたしていきます。そして1905(明治38)年5月に京北幼稚園を開設した直後からひどい疲労に襲われるようになり、ついには医師から「神経衰弱症」と診断されてしまいます。

教員免許の再認可を受けるためには、学長である円了の名で文部省に申請書を出願するしかありません。このため、円了には、信念を曲げて再出願するか、あくまで信念は貫くものの哲学館大学を苦境から救うために自身は経営から身を引くか、の二つの選択肢しか残されていませんでした。

思い悩んだ末、12月半ばに円了は引退という道を選択することを決意します。そして後任の学長には、講師の中から東京帝国大学でも教鞭をとったことがある前田慧雲を指名し、前田との間で哲学館譲渡に関する契約を交わします。その契約に円了は、以下の3点を明記しました。

1 創立の趣旨である東洋哲学の振興普及をはかる
2 財団法人とする
3 将来、出身者に優れたものがいたら、その人物に学長を継承する。いなければ講師の中から選ぶ

円了は1903(明治36)年に遺言状を公開し、学校は社会国家の共有物であるから、子供たちには継承させないことを明言していました。その意志を貫き、哲学館大学を財団法人にすることを決めたのです。

1906(明治39)年1月1日をもって円了は哲学館大学の学長を辞職し、名誉学長となります。そして6月28日には哲学館大学は東洋大学と改称され、7月4日には財団法人私立東洋大学が設立されました。

東洋大学という新校名決定には、円了の考えによってなされました。円了は東京大学で西洋の哲学を学びましたが、それを鵜呑みにせず、東洋にも哲学があるとし、「東洋学」を標榜していました。そしてその専門学校として東洋大学を設立する意向を、1896(明治29)年前後から持っていたのです。

円了は、前述の契約の第1項に「東洋哲学の振興普及」とあるように、それが創立の趣旨であると改めて定め、「東洋大学」という新しい校名に決断したのです。

財団法人が設立されると、円了は土地や建物、有価証券などの資産をすべて財団法人に寄付します。以後は東洋大学との関係は卒業式や同窓会などの行事に参加する程度にとどめ、修身教会の活動に力を注いでいきました。

井上円了を継ぎ学長となった前田慧雲。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)の出身
で、天台宗の泰斗と呼ばれた人格者だった