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哲学館大学の誕生と修身教会運動

哲学館大学の誕生と修身教会運動

2014年2月19日更新

哲学館大学の誕生と修身教会運動

哲学館大学の学長に就任した当時の井上円了

哲学館事件が起きた時、井上円了は大学経営を学ぶため欧米視察の旅に出ていました。円了は1903(明治36)年1月30日、ロンドンで事件を知りました。円了はちょうど現地に滞在していた文部省普通学務局長の沢柳政太郎と何度も面会して、真相を確かめると同時に善後策を協議します。

そして2月22日付の哲学館宛ての手紙には、「事件の真相は判明したが、不運としてあきらめる以外にない」旨を書き記します。また3月25日付の知人宛ての私信には「今回の事件は人災としてあきらめた」と述べています。

円了は事件の真相を逝去まで語りませんでしたが、文部省の威信もあって処分が直ちに取り消されることは難しいこと、教員免許の無試験検定の認可が将来復活しても法令規定がある以上、現在の学生にさかのぼっては適用されないことなどを理解したのです。

欧米諸国を歴訪して同年7月26日に帰国した円了は、事件に対して納得できないことを述べながらも、今後、文部省が教員免許の無試験検定を再び認可しようとしても、今回不合格になった学生の問題が解決しない限り、「哲学館の義理」として認可はうけないことをきっぱりと表明し、以後その決意を貫きます。それは、哲学者、教育者としての円了の意地だったのでしょう。

帰国した円了は、哲学館を改革していきます。

1903(明治36)年3月、専門学校令が公布され、私学が高等教育機関として公式に認められ、多くの私学が大学へと改称します。そもそも円了が海外視察に出かけたのも、この公布を機に哲学館を本格的な大学に発展させるためでした。

哲学館は円了の帰国後に手続きを行い、同年10月に専門学校令による設置認可を得て、翌1904(明治37)年4月に大学部と専門部を置く「私立哲学館大学」として新たなスタートを切ったのです。

学則で開学の目的を「高等な哲学・文学を教授する」とした哲学館大学は、大学部、専門部、予科、別科の4部に分かれており、大学部は漢文・中国哲学を主体に国文学やインド・西洋の哲学を加えた弟一科と、インド・西洋哲学の比重が高い第二科に分かれていました。

ただし、円了は哲学館事件のことを忘れたわけではありませんでした。1903(明治36)年9月、円了は「修身教会」運動の構想を明らかにします。

円了は欧米諸国を視察中に、日本と欧米諸国の「国勢民力」には依然大きな差があり、日本の国民性を向上させるためには道徳教育が必要だと痛感します。日本の道徳教育は小学校の修身教育がすべてであるのに対し、欧米では宗教ごとに教会があり、日曜教会で道徳教育が施されているため、それが国勢民力の差となっていると考えたのです。そのため日曜教会の役目を担う母体として修身教会を設立し、その組織を全国の市町村に普及させる壮大な計画を立て、自ら全国を講演して回ります。

この修身教会運動には、もう1つの狙いもありました。それは哲学館事件で傷ついた哲学館の名誉を回復させることです。修身教会で教育勅語の趣旨を教えることで、哲学館が教育勅語の精神を順守する教育機関であることをアピールしようとしたのです。

なお、円了はこれらの事業と並行して現在の哲学堂公園の地に釈迦、孔子、ソクラテス、カントの4大哲学者を祭る哲学堂を建設、1904(明治37)年4月に開堂式を挙行しました。この哲学堂は、哲学館大学開設の記念であると同時に、哲学館事件の記念でもありました。『哲学堂由来記』に円了は、スペースの半分を割いて哲学館事件の顛末を記しています。

1904(明治37)年に出した哲学館大学の学生募集広告