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円了の不在の間に哲学館を襲った大事件

円了の不在の間に哲学館を襲った大事件

2014年1月22日更新

円了の不在の間に哲学館を襲った大事件

哲学館の倫理学の講師を務めていた中島徳蔵。後
に東洋大学の学長を務め、「東洋大学中興の祖」
と呼ばれる

1887(明治20)年に哲学館を創立した井上円了は、先に紹介したように台風や火災といった災難を乗り越え、本格的な大学への道を目指していきます。当時、哲学館などの私学は、官立の帝国大学に比べて不利な待遇を受けていました。

その1つは学生の徴兵猶予、そしてもう1つが中等教育の教員免許の無試験検定でした。

そこで円了は他の専門学校とともに積極的に活動し、教員免許の無試験検定を私学として初めて認可を受けたのは1899(明治32)年、徴兵猶予は1900(明治33)年に認定を受けました。ただし、教員免許の無試験検定に関しては、文部省の検定委員や視学官が卒業試験に立ち会い、試験問題や試験方法が不適当と判断した場合は認可しない、という特別な条件付きの認定でした。

こうして哲学館の基礎を固めた円了は、1902(明治35)年4月に大学部を開設する計画を発表。大学経営を学ぶため、11月に欧米視察旅行に出発します。その円了不在の期間に、「哲学館事件」と呼ばれる大事件が哲学館を襲ったのです。

発端は、同年10月に行われた教育部第一科(教育倫理科)の卒業試験の答案に関する倫理学の講師、中島徳蔵と、文部省の視学官、隈本有尚とのやり取りでした。

「動機が善でも悪となる行為はあるか?」という内容の出題に対し、ある学生が「結果だけをみて善悪を判断してはいけない。そうしなければ、自由のための弑逆(しいぎゃく)も罪となってしまう」という趣旨の答案を提出していたのです。これは教育倫理科で中島が教科書として使用していた、英国の哲学者ジョン・ヘンリー・ミュアヘッドの学説に基づく答案でした。英国では清教徒革命があり、君主が殺害されたことを是認した学説でした。

弑逆とは、主君や親などを殺害することを意味します。そのため隈本は、ミュアヘッドの学説は動機が善なら君主(天皇)を殺してもかまわない不敬なものと安易にみなしたようで、「授業ではこの学説に批評を加えて教えたか?」と中島を問いただします。これに対し中島は「日本ではあり得ないことなので、特別に批評はしていない」と答えました。

その時はそれ以上のやり取りはありませんでしたが、数日後、「哲学館の倫理学は国体に合わない不穏な学説を教えているので、卒業生に無試験で教員免許を与えるべきでない、と文部省が考えている」という噂が広まりました。円了や中島らは文部省を訪ねて真相を確かめるとともに、この問題が教員免許の無試験検定に影響しないように要請しました。そして、これが大問題とはならないことを確信したからこそ、11月15日に円了は欧米視察に出発したのです。

ところがその2日後、「倫理学の授業における動機と行為の関係についての教授法を報告し、同時に先の卒業試験の答案を提出せよ」という文部省からの照会状が哲学館に届きます。円了の留守を預かっていた中島は、その回答と教科書、答案を提出するとともに文部省に直接出向き、「哲学館では館主である円了が忠君愛国を持論とし、国民として皇室尊敬の心得を教えている」ことを繰り返し説明しました。

その後も中島は懸命な努力を続けますが、文部省は12月13日付で教員免許の無試験検定の認可取り消しを決定、翌14日に哲学館に通告しました。これが大きな社会問題にまで発展する、哲学館事件の大まかな経緯です。

哲学館が教科書と利用していた英国
の哲学者ジョン・ヘンリー・ミュア
ヘッドの翻訳書『倫理学』