1. トップページ >
  2. Play Back > 2013年度 >
  3. 見せしめとして処分された哲学館
見せしめとして処分された哲学館

見せしめとして処分された哲学館

2014年2月6日更新

見せしめとして処分された哲学館

中島徳蔵が活用していた手帳。1903(明治36)年1月26日の欄には、新聞に発表するため、哲学館事件の全貌とそれに対する意見をまとめることを記している

1902(明治35)年12月13日付で文部省から教員免許の無試験検定の認可取り消しを通告された哲学館では、井上円了不在の中、対応に苦慮します。当事者である倫理学の講師、中島徳蔵は同日付で哲学館を辞任すると同時に、処分の取り消しを求めて奔走します。しかし、それもかなわず、翌1903(明治36)年1月22日、4人の学生の教員免許は認定しないとの通知が届きます。

追い詰められた中島は、ことの是非を世に問うべく、事件の全貌とそれに対する意見を新聞に発表します。これに対し、文部省の隈本有尚も反論を新聞に発表、中島もさらに新聞紙上で持論を展開します。こうして哲学館事件は世間の注目を浴びることになり、同年5月には国会の質問でも取り上げられ、大きな社会問題となっていきます。しかし、それでも文部省はけっして処分を撤回しようとはしませんでした。

哲学館事件が起きた背景には、当時の日本の社会状況、そして文部省の事情などが複雑にからみあっていました。

中島は文部省の依頼を受け、1900(明治33)年から円了とともに修身教科書調査委員を務めていました。修身の授業は「教育勅語」に基づいて児童の道徳教育を行うものと定められていましたが、児童にとっては理解しにくいため、中島は「智・仁・勇」の三徳を中心にした教科書を作成することで、教育勅語の趣旨を分かりやすく解説しようという私案を持っていました。

この私案が保守派の委員に漏れ、右派の新聞が「中島は勅語の改正を図る大不敬漢」だと糾弾したのです。これは明らかにでっちあげの報道で、文部省も事実無根と否定しましたが、結局中島は委員の辞任に追い込まれます。こうしたいきさつもあって中島は、正確な事情を知らない保守的な人たちから悪く思われていました。

哲学館事件が発生した当時、日本国内では普通選挙期成同盟会が1899(明治32)年に結成されるなど、民主主義への期待が高まっていました。個人主義の思想が広がりつつある時代でもありました。

一方、政府は1904(明治37)年に開戦する日露戦争に向けて、準備を進めていました。そのため国民教育を徹底し「皇国臣民」意識を国民に植え付け、国家主義を浸透させることが求められていたのです。その状況の中で、中島の教育勅語に関する事件も影響したのでしょうか、君主の殺害を意味する「弑逆(しいぎゃく)」という言葉に文部省は目を付け、皇国臣民教育に利用したと言われています。

さらに文部省は当時、教科書検定を巡る汚職事件で、社会の厳しい目にさらされていました。その教科書事件の関係者の検挙が始まったのが、1902(明治35)年12月17日で、哲学館の教員免許の無試験検定の認可取り消しを決定した直後のことでした。このため文部省が世間の目をそらそうと、中島が関係している哲学館を巻き込んで事件を無理に引き起こしたという見方もあるほどです。

いずれにせよ哲学館は、見せしめとして利用されたのです。

1903(明治36)年発行の『哲学館事件と倫理問題』とその続編。哲学館事件に関する新聞・雑誌の代表的な記事や論文が収録されている