1. トップページ >
  2. Play Back > 2016年度 >
  3. Play Back:「学び」のため、命を懸けてチベットへ 仏教研究の貢献者 河口慧海
Play Back:「学び」のため、命を懸けてチベットへ 仏教研究の貢献者 河口慧海

Play Back:「学び」のため、命を懸けてチベットへ 仏教研究の貢献者 河口慧海

2017年3月16日更新

今から120年前の1897(明治30)年、ひとりの仏教学者が日本で初めてチベットに渡りました――。今回は私立哲学館(現・東洋大学)の卒業生であり、生涯を懸けて仏教研究に寄与した河口慧海について紹介します。
慧海は1866(慶応2)年に摂津国の堺(現・大阪府堺市)で生まれました。慧海が仏道を志したのは15歳の時、『釈迦一代記』という本に出会い、釈迦が教える仏教世界に深く心を打たれたためといわれています。その後、1880(明治13)年に黄檗宗瑞龍寺の佐伯蓬山に師事。寺務をこなしながら独学で仏道の研究を続けていましたが、1888(明治21)年に本格的な仏道の研究に専念することを決意し、私立哲学館へ入学しました。在学中には仏教機関紙に寄稿した論文や評論が評判となり、気鋭の論客として一目置かれる存在に。1891(明治24)年には26歳という若さで黄檗宗羅漢寺の学生住職となりました。
住職となった慧海ですが、仏教への情熱はとどまる所を知りませんでした。仏教経典の集大成とされる『鉄眼版一切経(大蔵経)』を読んだ慧海は、サンスクリット語の原典とこれまでの漢訳仏教経典に矛盾を発見。釈迦の正しい考えを広めるには、当時インドに代わって仏教の中心であったチベットに行って“本物の仏教”を学ぶことが必要だと考えるようになりました。
しかし、明治期のチベットはイギリスの侵入を防ぐために鎖国政策をとっており、入国が非常に困難な状態。日本人は誰も見たことのない、まさに秘境の国でした。慧海はインドにおいてチベット語とサンスクリット語を学習後、ネパールを経由してチベットへ入国することを決意。ヒマラヤ山脈を越える命がけの大冒険を経て、日本人として初めてチベットに潜入しました。そこで慧海は仏教の修行を積み、ダライ・ラマに謁見するなど多くの収穫を得て帰国。チベット旅行について綴った『西蔵旅行記』を刊行して各地で精力的に講演を行いました。
その後、1904(明治37)年より再びチベットへ。さらなる経典収集やチベット文化の研究、現地の植物の採集といった成果を収めました。その後慧海は2度のチベット旅行で得た経験を生かし、仏教経典やチベット文法書の編纂に取り組みました。母校である私立哲学館や大正大学、宗教大学でチベット語や仏教にまつわる教育も行いました。
慧海は1921(大正10)年に僧籍を返上し、還俗を発表。1940(昭和15)年にはチベット語やサンスクリット語の経典など貴重な研究資料を東洋学の専門図書館である東洋文庫に寄贈しました。晩年まで仏教研究、仏教経典の編纂に力を注ぎ、毎日のように東洋文庫に通っていたといいます。慧海の類まれなる行動力と学びへの情熱は、日本の仏教研究に計り知れないほどの貢献をもたらしたのです。

河口慧海
1866(慶応2)年生まれ、1945(昭和20)年没。チベット語学や仏教研究などに尽力した仏教学者。黄檗宗の五百羅漢寺の住職・海野希禅より得度を受け、「慧海仁広」の名で住職としても活動。晩年は自身の著書で「在家仏教」を唱える。