1916年、東洋大学に一人の女子学生が入学しました。貧しい士族の五人姉妹の二女として生まれた栗山津禰(つね)は、自力で生きるため教師になるべく、大学進学を目指します。その結果、東洋大学は私立の高等教育機関の中で、初めて男女共学を実現した大学となりました。
その背景には、大学創設者である井上円了の目指した「余資なく、優暇なき者」のために「社会教育」と「開かれた大学」を提供するという理念があります。この精神が男女の差別なく学問する環境をつくりました。良妻賢母を目指すのでもなく、女性の特性を伸ばす教育に特化するのでもなく、男子学生と同等に、対等に、同じ学問をする。今でこそ当たり前のことですが、それは100年前に東洋大学がさきがけとなり、始めたことなのです。

「女性の学問は男性と対等であるべき」という信念

つい100年前まで、日本では女性に学問は不要であると考えられており、求められるのは「女性らしい高度な教養」でした。良妻賢母が女性の鏡とされた時代です。しかし、女性でも自立し、周囲から尊敬もされ、高い地位に進むことも可能な職業が1つだけありました。それが教師です。貧しかった栗山津禰の両親は、娘には教育を受けて教師となり、自立し尊敬される人間になってほしいと願い、栗山本人もそれを望み教師を目指します。中等学校以上の教師になるには女子高等師範学校へ入学するほか、文部省(現文部科学省)の検定試験を受けるという方法がありました。男子の場合は、大学に進むという方法もあったものの、当時の大学は女子の入学を認めていませんでした。そのとき栗山が目にしたのが、東洋大学の入学案内です。ほかの大学に記載されている「男性のみ」の記述がないことに気付き、東洋大学も「断る理由はない」と栗山を受け入れました。こうして東洋大学は私学で初めて男女共学を実現した高等教育機関となったのです。

栗山には教師になるという明確な目的があったので勉学に励み、いずれの学年でも首席という成績でした。現在残っている当時の日記や往復書簡には、「東洋大学の入学日に行く夢を見た」という一節があります。夢に見るほど入学を渇望していたのですから、念願が叶って学べるとなれば、優秀な成績を収めるのも当然の結果です。栗山に限らず、この後に入学してくる女子学生はいずれも非常に優秀でした。大学で学ぶことのできる機会を得た女性はまだ極めて限られていましたから、使命感もあったのでしょう。栗山の母は優秀な成績で及第した娘にお祝いを用意する余裕はないため、「大きな根を付けて太い本になり良い花を咲かせてほしい」という思いを込めて、家でできた大根の漬物を贈ったというエピソードが残っています。10歳にもならない幼いうちから家族の手伝いをしていた栗山の母親は、学がないことの劣等感から人前で話もできず、頭を上げることもできず、「人に生まれたかいがない」とまで思い悩みました。子供たちには決して同じ思いをさせたくないと、学問を勧めたのです。

栗山は「大学で差別された経験がない」と残しています。意外に思えるかもしれませんが、ちょうど大正のリベラリズムと重なり、男女平等を唱える人が出始めていた時代でもありました。当時の東洋大学の境野哲学長も含め、知識階級と呼ばれている男性たちの多くは海外に出ており、そこで男女が対等に学ぶ姿を見て「日本は遅れている」と感じ、帰国するという経験をしています。そのため、女性たちを閉じ込めておくのではなく、もっと学んでもらうべきだと思っている指導者がたくさんいました。女性が学ぶにあたり、女性ならではのセンスや力を生かしそれを伸ばすという考えと、男女関係なく学び能力を伸ばすという考えの2通りありました。前者が日本女子大を始めとした女子大学の設立につながり、後者は東洋大学の女子学生受け入れにつながったともいえましょう。

当時の学長は学問において性別は関係ないという確固たる考えを持っていたので、「女性ならでは」ということは考えずに存分に学びなさいと唱えました。さらに「女性ならではといった特性論でも飾り物でもなく、男子のための道具として女性を添えるのでもなく、女性が人格を完成するために学問することは男性と同等であるべきだ」と主張しました。実は当時、文部省は大学への女子入学を認めていなかったのですが、学長が「だめだと言われようが構わない」と栗山の入学を認め、文部省もこれを黙認したのです。良妻賢母を目指す教育ではなく、男性と同じ教育を受けられるというのは、当時の日本では前代未聞ともいえることでした。

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哲学を学ぶのに性別は関係ない

明治に入って次々と誕生した大学は、裕福な子息に政治経済を学ばせて近代国家の体を整えるという目的がありました。しかし円了先生はお金も時間もない人に目を向け、「諸学の基礎は哲学にあり」という精神に基づき、学校開設の翌年から「哲学館講義録」を発行して、通学できない者にも勉学の機会を与えました。これは今でいう通信教育で、当時としては画期的なシステムでした。他大学も同時期に通信教育を始めましたが、いずれも科目は政治経済でした。帝国議会ができ、明治憲法が制定され議会政治が始まるという時代に、いくら制度を整えても、議会政治とは何か、選挙で選んだり選ばれたりすることがどういう意味を持つのかを、人々が理解できなければ意味がありません。国民に知識がなければ欧米に近代国家として認めてもらえないということから、各大学は通信教育でも政治経済を教えたのです。そんななか、本学だけが哲学や心理学を教えました。お金も時間もない人、「余資なく、優暇なき者」にとって、学ぶべきことは政治経済以前に教養であり、人々の考え方、思想や心のあり方こそが近代国家をつくるためには重要なのだと考えたのです。

女性に参政権がない時代ですから、政治経済はもっぱら男性の学問になりました。しかし哲学に性別は関係ありません。そういった風土があったからこそ、本学は他大学にさきがけて女子学生を受け入れることができたのかもしれないと私は思っています。

通信教育を受けた人の多くは教員でした。小学校で教えるには教員免許が必ずしも必要とはされていませんでしたが、中学で教えるには免許が必要だったからです。本学の通信教育は、受講すると中等教員免許の検定試験、通称「文検」が免除されることを国から認められていました。おのずと「地元の中学で教えたい」と思った人が受講者の中心となったのです。つまり「政治家として世に出るぞ」といった人だけではなく、生まれ育った場所で子供たちや若者の教育に尽力したいという人を、通信教育という手段で応援したのでした。

ところが、女性にはまだ越えなければならないハードルがありました。男性には免除されている試験が、女性には免除されなかったのです。理不尽な決まりでしたが、学年トップの成績を保持していた栗山にとって、それはたいした障害とはなりませんでした。試験に合格し、晴れて東京府立第五中学校の漢文教師となります。ここは現在の小石川中等教育学校に当たり、偶然にも本学の竹村牧男学長の母校です。栗山はもちろん、学校初の女性教師でした。

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学びたいという志ある者を迎え入れる

その後、栗山は、自分と同じように文検を受験して教師を目指す女性のために、国語漢文講座を開催します。文検には必ず源氏物語が出題されるので、紫式部を読む講座も実施、これが紫式部学会の設立へとつながっていきました。講座の講師には本学の先生も多数名前を連ねており、「あなたが志を持ってそういった講座を開催するならば喜んで応援に行く」と参加してくれたのでした。当時の会場写真を見ると、文検合格を目指す女性がずらりと並んでいて、その数に圧倒されます。それだけ働きたいという女性が多くいたわけで、そのような女性を、東洋大学の先生方は男女の区別なく応援しました。自分の生き方を確立するために学びたいという人に対して誠心誠意の応援をする、それが昔も今も本学の素晴らしいところだと思います。

東京女子医科大学を創設した吉岡彌生は、自身が男性と一緒に医学を学ぶ際にやゆされることが多く、やりにくい思いをたくさんしたといいます。当時は「医者は男の仕事」という圧力が相当強かったため、苦労は絶えなかったことでしょう。そのため、女性も男性を気にすることなく、邪魔されることなく、心穏やかに存分に医学を学べる場を作りました。一方栗山は、学生時代も、講座を開催する際も、そういった圧力を受けることはありませんでした。それは栗山の学んだ学問が政治経済でも医学でもなく、哲学だったからです。性別やお金の有無に関係なく、あらゆる人にとって大事なものは哲学であり心理学であると、円了先生には見えていたのでしょう。円了先生が目指した、学ぶ機会を与える対象である「余資なく、優暇なき者」に、私は「志ある者を受け入れる」という言葉も加えたいと思います。

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矢口 悦子教授文学部 教育学科 初等教育専攻

  • 専門:社会教育学、成人教育学、生涯学習論、家庭教育論

  • 掲載内容は、取材当時のものです