月別アーカイブ: 2016年2月

一般入試における以下の試験日程・会場において、収容人員に達したため、出願登録時に選択できなくなっております。

3月5日試験 長野会場

「マイページ」もしくは受験票にて試験会場を確認のうえ、当日お越しください。

一般入試における以下の試験日程・会場において、収容人員に達したため、出願登録時に選択できなくなっております。

3月5日試験 仙台会場

すでに上記日程・会場で出願した方でも、「東京(白山キャンパス)会場」に変更となっている場合がありますので、「マイページ」もしくは受験票にて試験会場を確認のうえ、当日お越しください。

(2月27日追記)
「3月5日試験 仙台会場」を出願登録時に選択したみなさまは、仙台会場で受験いただけます。「マイページ」もしくは受験票にて試験会場を確認のうえ、当日お越しください。

企業を対象とする法律である会社法に興味を持ち、法学部企業法学科に進むことを選んだ篠原歩さん。ゼミでは同期の仲間と切磋琢磨しながら懸賞論文に挑戦し、担当教授の魅力的な人柄に感銘を受けながら、多くのことを学んできました。アルバイトや就職活動においても常に向上心を持ち、積極性を発揮することでいくつもの気付きを得ることができた4年間。その充実した毎日を振り返りながら、篠原さんは今、自らが理想とする社会人像に向けて思いを新たにしています。

ゼミから、たくさんの学びを得た

ゼミで研究したのは、民法学の債権分野で「請負人の損害賠償請求について」です。タイトルだけを見ると難しそうですが、内容は「家の建築を注文した側と、建てる側の裁判について」など、将来身近に起こりそうなケースが中心で、興味深い話ばかりでした。ゼミの太矢一彦先生から受けた影響は、とても大きいですね。とにかく知識が豊富な方で、忙しくても学生のためなら時間を作って会ってくださり、論文もその日のうちに目を通してくださいました。教授職にある現在でも、他の教授たちと集まっては勉強するという努力を欠かさないそうで、私も先生のような魅力あふれる人になれたらと思っています。

太矢ゼミでは、有志4人で「金融裁判所の設置」をテーマに日本銀行の「日銀グランプリ」の懸賞論文にも挑戦しました。3年生の6月から先生にもご指導いただきながらテーマを考え、資料を集めて、その資料から自分たちで新たな提言を考えて…。3年生ともなると、それぞれインターンシップもあり、4人で予定を合わせて集まる時間もなかなか取れません。また、それぞれ考え方も異なるので意見が対立することもあり、論文をまとめるのは難しい作業でした。この経験から多様な価値観に触れ、相手の意見を受け入れながらも自分の意見を持つことの大切さや、人間関係の築き方も学びました。

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「積極的に行動する」を常に心がけて

3年生のときに受講した講座のなかには、就職活動で役立つ対策講座もありました。講座では「自分が一歩成長できるようなアクションを起こす」という課題が出され、私は1年生からアルバイトを続けてきたパスタ店で活用できる新人マニュアルを作成することにしました。働き始めたときはオープニングスタッフでしたが、新しいスタッフが入ってくるたびに新人教育の仕方がバラバラだと感じていたのです。系列店の店長を訪ねて新人教育の在り方について質問しながら自分なりの考えでマニュアルをまとめ、新人教育の方法を統一することができました。アルバイト先では他にもお客様評価の「ありがとう」を増やす取り組みを行うなど、自ら積極的に行動することを心がけました。

就職活動を始めるにあたり、当初は自分がどういうところに興味があるのか分からず、まずはいろいろな業種を知ろうと合同説明会に参加しました。何度も足を運んだなかでも、内定をいただいた三井住友海上は、座談会など社員の方とお話しをする機会がたくさん設けられていました。OB・OG訪問をしたり、企業訪問をして社員の方に会わせていただいたりしましたが、社内の雰囲気や社員の人柄なども把握したうえで、自分に一番合っている会社だと感じました。「ネットなどの情報に頼り過ぎず、自分の目と足でしっかり確認したこと」が功を奏したと感じています。

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「自分を変えよう」と努力し続けた4年間

実は「大学受験のときに、努力が足りなかった」と少し後悔する気持ちがあり、大学に入学したときには「周りに流されず、自分のペースでしっかり勉強していこう」と決意を新たにしました。高校生までは引っ込み思案だった私ですが、大学では一番厳しいと言われるゼミに入り、懸賞論文にも挑戦し、アルバイトでも自らすすんで行動するなど「自分を変える努力」を続けた4年間でした。そして、自分から行動を起こせば、周りの人たちも応援してくれるのだと気付きました。いよいよこれから社会へ出て行くことになりますが、お世話になった太矢先生のように、いつでも向上心を持って学ぶ姿勢を忘れずに、就職活動でお会いした先輩や、内定先の憧れの先輩をお手本に、後輩に尊敬される社会人になれたら、と思っています。

篠原 歩さん法学部 企業法学科 4年

  • 内定先:三井住友海上火災保険株式会社
  • 所属ゼミナール:太矢一彦ゼミナール
  • 出身校:茨城県立水戸桜ノ牧高等学校

「インド哲学について学ぶ」という東洋大学独自のカリキュラムに魅力を感じて、イブニングコースの文学部インド哲学科(現・東洋思想文化学科)に入学した中村雅希さん。昼間は就職に向けて資格を取るため専門学校で学び、夕方からはイブニングコースでまったく違うジャンルの学問を学ぶという多忙な日々を過ごしました。学業はもちろんのこと、大学で過ごした4年間はサークルやボランティア活動、アルバイトなどの経験によって視野が広がり、人間的にもひと回り成長することができたと振り返ります。

初めてのボランディア経験で、視野が広がった

インドには「多くの企業が進出し、これから発展が見込まれる国」といったイメージがあります。大学でより深く学び、知識を得ることは、これからの自分のためになるのではと考えて入学を決めました。授業内容はヨーガや写経、座禅などさまざま。身をもって仏教を体験するような興味深い授業が多かったですね。哲学については、やはりマハトマ・ガンディーの「非暴力、不服従」の教えが印象に残っています。

大学では活動の幅を広げようと、サークルにも入りました。そして、2年生の秋にサークルの先輩の誘いでボランティア活動に参加し、全国にある「先天性四肢障害児父母の会」という団体の運動会を手伝うことになりました。最初は「子供たちと仲良くできるのだろうか」との不安もありましたが、子供たちは普通に運動ができ、しっかり会話することができました。競技を進めながら自分から子供たちに話しかけ、保護者に「どんなお子さんですか」と尋ねるなどして、少しずつコミュニケーションを深めていきました。

子供たち同士がペアになって競うおんぶレースでは、相手のいない子が一人いたので、私がその子を背負って走りました。高学年で体格のいい子でしたが、「2位になれて良かった!ペアを組んでくれてありがとう」と喜ばれたことが印象に残っています。最後には「お兄さんとまた運動会に出たい」という言葉をもらいました。

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熱意を持って取り組めば、達成できないことはない

大学に入学した当初は「資格さえ取れれば就職できるだろう」と安易に考えていました。イブニングコースに通いながら、日中は専門学校に通って資格試験に向けた勉強をしていました。1年生のときには日商簿記の2級に合格。3年生の6月にファイナンシャル・プランニング技能検定に合格しました。また、ボランティア活動を通じて子供たちと接し視野が広がり、「子供と関わるアルバイトをしてみよう」と学童保育のアルバイトにも挑戦しました。

学童保育では小学生と一緒に遊んだり、宿題を見たりしますが、なかには遊ぶことに夢中で宿題をやりたがらない子もいます。だからといって「宿題をしなさい」と命令するのではなく、子供自身が「やらなくちゃ」と思うように言葉を掛けるなどの工夫をするうちに、子供たちのやる気を引き出すコツが少しずつ分かってきました。子供とコミュニケーションを図るには、こちらから話しかけていく以外に方法はありません。そのように熱意をもって取り組んでいけば、どんなことでも達成できるはずだと気付かされた経験でした。

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就職活動におけるハンデはなかった

入学前の東洋大学には「駅伝などスポーツが強い大学」というイメージがありましたが、実際に入学してみると図書館などの学習環境が充実しており、「文武両道の大学」なのだと実感しました。就職活動にあたっては、イブニングコースということで就職先が限られるのではないかという不安もありましたが、就職活動を始めたら、そんな心配は全く無用でした。昼間は授業がないので、企業訪問や説明会に充てることができて、むしろ一日を効率良く使うことができたのは良かったと思います。

私は入学当初から金融業界への就職を目指し、そのために必要な資格を取るなど計画的に準備をしてきました。就職活動を始めた頃は地域密着型の金融機関で働きたいと考えていましたが、次第に視野を広げて、ゆうちょ銀行にエントリーしたところ、東海エリアで内定をいただくことができました。ゆうちょ銀行は日本最大の金融機関の1つですが、一人一人にとって身近な存在であるところに魅力を感じています。今後は金融のスペシャリストとして、「またあの人に相談したい」とお客様に思ってもらえるような仕事をしていきたいですね。

中村 雅希さんイブニングコース 文学部 東洋思想文化学科 4年

  • 内定先:株式会社ゆうちょ銀行
  • 出身校:静岡県立浜松商業高等学校

1916年、東洋大学に一人の女子学生が入学しました。貧しい士族の五人姉妹の二女として生まれた栗山津禰(つね)は、自力で生きるため教師になるべく、大学進学を目指します。その結果、東洋大学は私立の高等教育機関の中で、初めて男女共学を実現した大学となりました。
その背景には、大学創設者である井上円了の目指した「余資なく、優暇なき者」のために「社会教育」と「開かれた大学」を提供するという理念があります。この精神が男女の差別なく学問する環境をつくりました。良妻賢母を目指すのでもなく、女性の特性を伸ばす教育に特化するのでもなく、男子学生と同等に、対等に、同じ学問をする。今でこそ当たり前のことですが、それは100年前に東洋大学がさきがけとなり、始めたことなのです。

「女性の学問は男性と対等であるべき」という信念

つい100年前まで、日本では女性に学問は不要であると考えられており、求められるのは「女性らしい高度な教養」でした。良妻賢母が女性の鏡とされた時代です。しかし、女性でも自立し、周囲から尊敬もされ、高い地位に進むことも可能な職業が1つだけありました。それが教師です。貧しかった栗山津禰の両親は、娘には教育を受けて教師となり、自立し尊敬される人間になってほしいと願い、栗山本人もそれを望み教師を目指します。中等学校以上の教師になるには女子高等師範学校へ入学するほか、文部省(現文部科学省)の検定試験を受けるという方法がありました。男子の場合は、大学に進むという方法もあったものの、当時の大学は女子の入学を認めていませんでした。そのとき栗山が目にしたのが、東洋大学の入学案内です。ほかの大学に記載されている「男性のみ」の記述がないことに気付き、東洋大学も「断る理由はない」と栗山を受け入れました。こうして東洋大学は私学で初めて男女共学を実現した高等教育機関となったのです。

栗山には教師になるという明確な目的があったので勉学に励み、いずれの学年でも首席という成績でした。現在残っている当時の日記や往復書簡には、「東洋大学の入学日に行く夢を見た」という一節があります。夢に見るほど入学を渇望していたのですから、念願が叶って学べるとなれば、優秀な成績を収めるのも当然の結果です。栗山に限らず、この後に入学してくる女子学生はいずれも非常に優秀でした。大学で学ぶことのできる機会を得た女性はまだ極めて限られていましたから、使命感もあったのでしょう。栗山の母は優秀な成績で及第した娘にお祝いを用意する余裕はないため、「大きな根を付けて太い本になり良い花を咲かせてほしい」という思いを込めて、家でできた大根の漬物を贈ったというエピソードが残っています。10歳にもならない幼いうちから家族の手伝いをしていた栗山の母親は、学がないことの劣等感から人前で話もできず、頭を上げることもできず、「人に生まれたかいがない」とまで思い悩みました。子供たちには決して同じ思いをさせたくないと、学問を勧めたのです。

栗山は「大学で差別された経験がない」と残しています。意外に思えるかもしれませんが、ちょうど大正のリベラリズムと重なり、男女平等を唱える人が出始めていた時代でもありました。当時の東洋大学の境野哲学長も含め、知識階級と呼ばれている男性たちの多くは海外に出ており、そこで男女が対等に学ぶ姿を見て「日本は遅れている」と感じ、帰国するという経験をしています。そのため、女性たちを閉じ込めておくのではなく、もっと学んでもらうべきだと思っている指導者がたくさんいました。女性が学ぶにあたり、女性ならではのセンスや力を生かしそれを伸ばすという考えと、男女関係なく学び能力を伸ばすという考えの2通りありました。前者が日本女子大を始めとした女子大学の設立につながり、後者は東洋大学の女子学生受け入れにつながったともいえましょう。

当時の学長は学問において性別は関係ないという確固たる考えを持っていたので、「女性ならでは」ということは考えずに存分に学びなさいと唱えました。さらに「女性ならではといった特性論でも飾り物でもなく、男子のための道具として女性を添えるのでもなく、女性が人格を完成するために学問することは男性と同等であるべきだ」と主張しました。実は当時、文部省は大学への女子入学を認めていなかったのですが、学長が「だめだと言われようが構わない」と栗山の入学を認め、文部省もこれを黙認したのです。良妻賢母を目指す教育ではなく、男性と同じ教育を受けられるというのは、当時の日本では前代未聞ともいえることでした。

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哲学を学ぶのに性別は関係ない

明治に入って次々と誕生した大学は、裕福な子息に政治経済を学ばせて近代国家の体を整えるという目的がありました。しかし円了先生はお金も時間もない人に目を向け、「諸学の基礎は哲学にあり」という精神に基づき、学校開設の翌年から「哲学館講義録」を発行して、通学できない者にも勉学の機会を与えました。これは今でいう通信教育で、当時としては画期的なシステムでした。他大学も同時期に通信教育を始めましたが、いずれも科目は政治経済でした。帝国議会ができ、明治憲法が制定され議会政治が始まるという時代に、いくら制度を整えても、議会政治とは何か、選挙で選んだり選ばれたりすることがどういう意味を持つのかを、人々が理解できなければ意味がありません。国民に知識がなければ欧米に近代国家として認めてもらえないということから、各大学は通信教育でも政治経済を教えたのです。そんななか、本学だけが哲学や心理学を教えました。お金も時間もない人、「余資なく、優暇なき者」にとって、学ぶべきことは政治経済以前に教養であり、人々の考え方、思想や心のあり方こそが近代国家をつくるためには重要なのだと考えたのです。

女性に参政権がない時代ですから、政治経済はもっぱら男性の学問になりました。しかし哲学に性別は関係ありません。そういった風土があったからこそ、本学は他大学にさきがけて女子学生を受け入れることができたのかもしれないと私は思っています。

通信教育を受けた人の多くは教員でした。小学校で教えるには教員免許が必ずしも必要とはされていませんでしたが、中学で教えるには免許が必要だったからです。本学の通信教育は、受講すると中等教員免許の検定試験、通称「文検」が免除されることを国から認められていました。おのずと「地元の中学で教えたい」と思った人が受講者の中心となったのです。つまり「政治家として世に出るぞ」といった人だけではなく、生まれ育った場所で子供たちや若者の教育に尽力したいという人を、通信教育という手段で応援したのでした。

ところが、女性にはまだ越えなければならないハードルがありました。男性には免除されている試験が、女性には免除されなかったのです。理不尽な決まりでしたが、学年トップの成績を保持していた栗山にとって、それはたいした障害とはなりませんでした。試験に合格し、晴れて東京府立第五中学校の漢文教師となります。ここは現在の小石川中等教育学校に当たり、偶然にも本学の竹村牧男学長の母校です。栗山はもちろん、学校初の女性教師でした。

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学びたいという志ある者を迎え入れる

その後、栗山は、自分と同じように文検を受験して教師を目指す女性のために、国語漢文講座を開催します。文検には必ず源氏物語が出題されるので、紫式部を読む講座も実施、これが紫式部学会の設立へとつながっていきました。講座の講師には本学の先生も多数名前を連ねており、「あなたが志を持ってそういった講座を開催するならば喜んで応援に行く」と参加してくれたのでした。当時の会場写真を見ると、文検合格を目指す女性がずらりと並んでいて、その数に圧倒されます。それだけ働きたいという女性が多くいたわけで、そのような女性を、東洋大学の先生方は男女の区別なく応援しました。自分の生き方を確立するために学びたいという人に対して誠心誠意の応援をする、それが昔も今も本学の素晴らしいところだと思います。

東京女子医科大学を創設した吉岡彌生は、自身が男性と一緒に医学を学ぶ際にやゆされることが多く、やりにくい思いをたくさんしたといいます。当時は「医者は男の仕事」という圧力が相当強かったため、苦労は絶えなかったことでしょう。そのため、女性も男性を気にすることなく、邪魔されることなく、心穏やかに存分に医学を学べる場を作りました。一方栗山は、学生時代も、講座を開催する際も、そういった圧力を受けることはありませんでした。それは栗山の学んだ学問が政治経済でも医学でもなく、哲学だったからです。性別やお金の有無に関係なく、あらゆる人にとって大事なものは哲学であり心理学であると、円了先生には見えていたのでしょう。円了先生が目指した、学ぶ機会を与える対象である「余資なく、優暇なき者」に、私は「志ある者を受け入れる」という言葉も加えたいと思います。

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矢口 悦子教授文学部 教育学科 初等教育専攻

  • 専門:社会教育学、成人教育学、生涯学習論、家庭教育論

性格理論には「類型論」、「特性論」、「相互作用論」、「社会的学習理論」が挙げられます。「類型論」とは、理論や原理に基づいて、個人の性格を特定のタイプに分類するものです。「特性論」とは、さまざまな特性の組み合わせにより性格を説明するものです。「相互作用論」とは、性格だけでなくその場の状況が行動に及ぼす影響を考慮するものです。「社会的学習理論」とは、個人の行動は過去の経験から学習されたものと考えるものです。
同じ身体能力の選手でも、性格によって競技成績に差異が出ることがあります。性格とスポーツの関連を客観的に測定し、統計的手法を用い分析する、つまり「スポーツを科学する」ということは、とても重要なのです。

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加藤 千恵子教授総合情報学部 総合情報学科

  • 専門:メンタルヘルス、スポーツ心理学、ヨーガセラピー、心理統計、アートセラピー

一般入試における以下の試験日程・会場において、収容人員に達したため、出願登録時に選択できなくなっております。

2月27日試験 仙台会場

すでに上記日程・会場で出願した方でも、「東京(白山キャンパス)会場」に変更となっている場合がありますので、「マイページ」もしくは受験票にて試験会場を確認のうえ、当日お越しください。

(2月23日追記)
「2月27日試験 仙台会場」を出願登録時に選択したみなさまは、仙台会場で受験いただけます。「マイページ」もしくは受験票にて試験会場を確認のうえ、当日お越しください。

幼い頃から「将来の夢は?」と聞かれても答えられなかったと語る、経済学部経済学科の石田真希さん。大学に進学してからは、意識的に「悩んでいないでとりあえずやってみよう」「一度決めたことはやり抜こう」と心掛け、憧れの先輩にならってスチューデントアシスタント(SA)を目指して勉強に励みました。SAの先輩や教授など世代の異なる人々と交流しながら視野を広げ、勉強やアルバイトを通じて根気強さを培った石田さんは今、「大好きな横浜で働く」という新しい夢への一歩を踏み出そうとしています。

スチューデントアシスタントの先輩に憧れて

高校生の頃までは数学が好きで、数学を生かせる学部に進学したいと考えていました。その頃は特に、将来の夢が定まっていなかったので、「経済学を学べば応用が利くのではないか」と選択したのが経済学部でした。

入学後初めての中間テストで100点を取ることができたことをきっかけに、「やる気を出せば良い結果を残せるかもしれない」と、常に上位を目指す意欲がわいてきました。その意欲をさらに後押ししたのが、スチューデントアシスタント(SA)の存在です。東洋大学には優秀な成績を収めている学部の先輩が後輩に科目を教える制度があり、私も入学したばかりで不安を感じていた頃、SAに経済学を教えてもらいました。年齢の近い先輩なので質問もしやすいですし、優しくて、憧れもありました。次第に「私もSAになりたい!」と考えるようになり、さらに勉強に熱が入りました。

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SAとしての活動が、交流の幅を広げた

そして、2年生に上がるときに、1年次の学部の成績優秀者に選ばれました。それからは「以降も絶対選ばれよう!」と心に決めて努力を続け、2年次、3年次でも成績優秀者に選ばれました。3年生からは、念願だったSAになることもできました。3~4年生で選抜されるSAは、各学年8人程度です。入学当初から勉強をがんばってきたかいがありました。

SAの主な役割は疑問を抱えている学生をサポートすることです。マンツーマンで教えることも、2~3人を同時に教えることもありました。実体験を踏まえているので「ここはきっと迷うだろうから、重点的に」「こうすれば分かりやすいのでは」と考えながら指導することができ、何より教えることで、自分自身の理解もより深まりました。

SAになったことで先輩や教授とのつながりが増え、世代の異なる人とも話すことができるようになったことは大きな収穫です。今でもSAの先輩とは、仲良く交流しています。教授とも答案の採点をしながら雑談するなど、話す機会が増えました。大学の先生は、なんとなく話しづらい、距離が遠い存在だと思っていましたが、接してみるとどの先生もフランクで、相談もしやすかったですね。

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さまざまな分野で「大好きな横浜」に関わりたい

就職活動に向けては、「自分の意見をきちんと話せるように」とディベートを行うゼミに参加したほか、民間企業の説明会にも積極的に参加するなど、さまざまな活動を行ってきました。3年生の夏には、神奈川県庁のインターンシップを経験。政策や仕事内容などに触れた結果、自分が本当に関わりたいのは「県」という大きな行政単位ではなく、「市」のように小さな行政単位なのだということがはっきりしました。

そして、私が4~5歳までを過ごした大好きな横浜市への就職を希望しました。横浜市は他の市区町村に先駆けて「待機児童ゼロ」の取り組みを行うなど、民間企業のようにアクティブに仕事ができるのではないかと感じたからです。自分が「やりたいこと」が定まっていない分、経済や観光、スポーツなど、どんな分野でもやりがいを持って関わることができると感じたのも理由の1つです。面接では、SAになるために勉強に励んできたことや、勉強と両立しながらひとつのアルバイトを根気よく続けてきたことなどをアピールし、評価していただけたのではないかと思います。

私は、自分でやると決めたら最後まできちんとやり遂げたいタイプ。負けず嫌いな面もあります。大学生活では資格試験にも取り組み、「勉強でがんばる」と決めたからにはそれを貫いてきました。悩んでいる時こそいろいろなことにチャレンジし、何かを極めること。それが自分の道を切り開いていくことにつながるのだと、実感しています。

石田 真希さん経済学部 経済学科 4年

  • 内定先:横浜市役所
  • 所属ゼミナール:児玉俊介ゼミナール
  • 出身校:栃木県立栃木女子高等学校

以前から外国に興味があり、ボランティアにも関わってみたかったと言う国際地域学部国際地域学科の北原舞さん。そこで「現場主義」をモットーに掲げ、自分の目と足で確かめる姿勢を大切にしている同学科へ入学しました。サークル活動やフィリピンへの研修旅行、海外ボランティア、海外留学…と、自分の体を使ったさまざまな活動に挑戦し、「日本の外には自分の価値観を広げてくれる人々や文化がたくさんある」ということに気付きました。

ボランティアで海外とつながりたい

私は高校3年間、英語科で学んでいたので、一日中英語だけの授業があったり、海外からの留学生のホームステイを受け入れたりと、常に英語に触れる環境で過ごしていました。その延長として大学でも国際関係の勉強をしたいと思い、国際地域学科に入学しました。

入学して驚いたのは先生との距離の近さです。大学では大教室で講義を受けるイメージがあったので、先生との接点はあまりないのかと思っていたのですが、1年生の頃から常に先生の研究室を訪ねて質問したり、近況報告をしたりしてきました。先生といつでも話せる環境があることが、とても嬉しい誤算でした。

これまでに受けた授業の中では、ゼミでもお世話になっている芦沢真五先生の「留学のすすめ」が印象に残っています。留学の目的や意義について学ぶ入門講座で、毎回、海外で活躍してきた方をゲストスピーカーに迎えてお話を伺う授業は、とても刺激的でした。入学前からボランティアに興味を持っていたので、授業を受けながら「私もいつかはボランティアをしながら海外とつながれるといいな」と、漠然と考えていました。

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全てはフィリピン研修旅行から始まった

そんな私に転機が訪れたのは、2年生になる直前です。国際地域学科では、毎年春休みに海外研修プログラムがあり、私はフィリピンのセブ島での2週間の研修旅行に参加しました。現地に行って、直接問題点を調査しようというフィールドワークの一環で、私はフィリピン大学の学生と協力しながらスラム街を訪れ、衛生面や経済面などの問題を調査して、解決に向けてどのようなことが必要なのかを考えました。

実際に調査に入ってみると、いろいろな問題点に気付かされます。例えば、現地では穴の開いている衣服を身に着けている人がたくさんいますが、そこから菌が入ったり虫に噛まれたりして感染症が発生し、衛生面への影響が大きいことなど、日本では目にしたことのないショッキングな事実もたくさん発見しました。

研修旅行で一番印象に残っているのは、外国人に対する視線が日本人とはまったく違うということ。スラム街は怖いと思っていたイメージとは逆に、実際に訪れると、現地の人々は私たちにとてもフレンドリーに接してくれました。どんなに暮らしは貧しくとも、人と人とが助け合うという大切な精神が根付いているのだと感じました。

経済やテクノロジーは日本のほうが発展していても、フィリピンで出会った人たちのほうが明らかに幸せそうに暮らしている。なぜそうなのかを知るには2週間という滞在期間では全く時間が足りませんでした。この研修旅行をきっかけに、いずれはこの地に住んで、もっと彼らのことを知りたいという思いが募っていきました。

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新しい環境に飛び込むことで世界が広がる

そして、3年生の8月。私はフィリピンへ向かいました。約5カ月間の留学です。留学先では「コミュニティ開発」という授業を選択し、研修旅行のときと同様、現地の人々と関わり合いながら問題点を浮き彫りにし、その解決を試みるという活動に取り組みました。

もう1つ、現地に住んでみて肌で感じたのは「ジェンダー」の問題です。フィリピンにはLGBT(性的少数者)がたくさんいますが、それに対して非常にオープンな文化があるということに驚きました。フィリピンでは、LGBTを差別したり避けたりすることなく、個性として受け入れています。「個々の人間を尊重する」という面では、日本よりもフィリピンのほうがずっと進んでいることが、とても印象的でした。

留学を経て、「居心地の良いところにいては、自分は成長できない」と私は気付きました。そして、新しいことにチャレンジしていくからこそ視野が広がるのだと感じました。これまで海外ボランティアにも参加していましたが、その国に貢献する方法はいろいろあります。「相手に何か与える」という視点だけでなく、その国のプラスの面を引き出し、それを世界に発信することで、ビジネスとして国の発展に寄与することができるのです。そして、社会に出たらそのような仕事に携わりたいと考えるようになり、旅行業界に就職を決めました。

学びは机の上だけとは限りません。自分の足で外に出ていき、自分の目で確かめることで世界観も広がります。大学生活を通じて、新しい環境に飛び込んでいく姿勢が培われたことが、自分にとって一番の成長なのではないかと感じています。

北原 舞さん国際地域学部 国際地域学科 4年

  • 内定先:株式会社JTBコーポレートセールス
  • 所属ゼミナール:芦沢真五ゼミナール
  • 出身校:愛知県立尾北高等学校

東洋大学長 竹村 牧男

本日、11:00~15:30頃にかけて、本学入試情報サイトにおいて、一時的に出願・合格発表ページにアクセスしづらい状況が発生いたしました。受験生の皆様ならびにご関係者の皆様には多大なご不便をおかけいたしましたことを心よりお詫び申し上げます。

現在は復旧し、正常に作動していることをご報告させていただくとともに、今後このような事態を起こすことのないよう、万全の対策を講じてまいりますので、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。

本件に関するお問合せ
東洋大学入試部
03-3945-7171

2015年10月15日から12月17日まで、東洋大学白山キャンパス内の井上円了記念博物館で、企画展「ヨーロッパのメルヒェン世界―グリム童話と挿絵の黄金時代―」が開催されました。展示された約20点の挿絵は、企画・監修した大野寿子先生の収集と大学附属図書館所蔵のものです。グリム童話を中心としたグリム兄弟の業績について、文献学的立場から研究を続けている先生が、企画展の見どころからグリム童話の学び方、楽しみ方まで、その魅力を語ります。

企画展にみる挿絵の黄金時代

グリム童話は、2005年にユネスコ世界記憶遺産に登録されました。その第1巻初版刊行200年を記念した国際シンポジウム「グリム童話200年のあゆみ―日本とドイツの架け橋として―」を、東洋大学創立125周年記念行事の1つとして本学で開催したのが2012年のことです。グリム童話は、実は創作童話ではありません。グリム兄弟が収集した民間伝承です。「グリム童話は本当に童話なのか?古代研究者グリム兄弟の実像にせまる!」。このようなキャッチコピーを配した2012年のシンポジウムでは、グリム童話成立、グリム兄弟の思想、グリム童話のヨーロッパや日本への影響といった「200年の歩み」がテーマでしたが、一番関心を集めたのが、グリム童話の挿絵の歴史でした。

このとき、カッセル(ドイツ)のグリム兄弟博物館(2014年閉館)館長が持参してくださった、グリム関連の貴重書や挿絵を展示したところ、長蛇の列ができてしまいました。来場者アンケートにつづられた、「またこのような挿絵の展示を!期間ももっと長く!」という要望に、3年越しでお応えするかたちで、この企画展を約2カ月にわたって開催する運びとなったのです。今回は、「挿絵の果たす装飾と叙述の役割」にスポットを当て、ウォルター・クレイン、アーサー・ラッカム、エドマンド・デュラック、カイ・ニールセンという4人の挿絵画家による、グリム童話を中心とした絵本と挿絵を展示しました。彼らは、19世紀後半から20世紀初頭の「挿絵の黄金時代」に、ロンドンで活躍した人気挿絵作家です。アール・ヌーヴォーとアール・デコにちょうど挟まれたこの時代、出版技術の発達とともに、クリスマスプレゼントに豪華版ギフトブックを贈る文化が定着し、見応えのある挿絵が数多く生まれました。

芸術とは、絵画などの大きな作品だけではありません。小さな挿絵もまた1つの芸術であり、そこには小さくても深みのある「空想世界」という異界が広がっています。そんな100年くらい前の挿絵を見つめてみると、1つのお話にいろいろな画家が挿絵を描いており、当時の流行だったオリエンタリズムやジャポニズムなどの様子がよく見てとれます。「西洋のお話に東洋風の挿絵?」というように、テキストと挿絵の関係性だけでなく、それらが時代とも絡み合い影響し合っていく…という観点で見てみるのも、グリム童話の挿絵の楽しみ方の1つです。

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ウォルター・クレイン画「カエルの王(子)さま」等、1874-76年、個人蔵。

挿絵がなかったグリム童話初版

『グリム童話』の本当の名前は『子供と家庭のメルヒェン集』といい、もともとはドイツ語で書かれ、第1巻初版は1812年に、第2巻初版は1815年に出版されました。しかし、実はそこには、挿絵がまったく付いてはいなかったのです。
兄のヤーコプ・グリムと弟のヴィルヘルム・グリムは、司書を経て大学教授となり、文学、言語学、法学、歴史学、そして今でいう民俗学や文化学などを総合的かつ学際的に研究していました。多岐にわたる研究の中で彼らが追い求めたもの、それは、「ドイツ的なもの」と「いにしえのもの」を発掘し保存することでした。ナポレオン率いるフランス軍に占領され、神聖ローマ帝国が滅亡した時代です。国がなくなる…自分たちの国民意識やアイデンティティに、危機感を覚えたのかもしれません。

「メルヒェン」はもともとドイツ語からきたことばです。ここで、「メルヘン」ではなく「メルヒェン」とつづるのは、1.原語の発音により近い表記だから、2.「メルヘン」だと、ふわふわした乙女チックなイメージ等、日本人に独特なイメージが加わってしまうからです。ドイツ語のメルヒェンとは、もともとは短い報告といった意味で、しかも口承であって、文字に書かれたものではありませんでした。
母語によって、グリム兄弟にとってはドイツ語で、母から子へ、子から孫へとだんだんと語り継がれてきたメルヒェン。でも万が一、政治的につらい時代がやってきて、ドイツ語で話してはいけないなどという状況になったら、口承が途絶えたり、メルヒェンがありのままの姿をなくしてしまうのではないでしょうか。短くて取るに足らない些細なお話でも、子供の頃に誰もが耳にして、だから誰もが知っている。そんな「メルヒェンは民族の宝物なので、書き留めて後世に伝えたい」という兄弟の思いから、お話が集められ、『グリム童話』が生まれたのです。

口伝えであれば挿絵は不要です。各自が物語の光景を想像すればよいのです。しかもグリム兄弟は、言語学者でもあります。民間伝承という「ことばの連なり」のかけらを、記憶という地層から「発掘して修復して保存する」という、まるで考古学者のような作業をしているつもりのグリム兄弟には、最初は挿絵など必要なかったのです。第2巻(1819年)にようやく挿絵が添えられましたが、たったの1枚でした。ところが、グリム童話の外国語訳、特に英訳(1823年)で、有名な風刺画家クルックシャンクの挿絵がたくさん入り、それがよく売れたのです。そこでグリム兄弟も、メルヒェン50話をセレクトした「小さな版」に、一番下の弟で画家のルートヴィヒ・エミール・グリムの挿絵を7枚付けて、1825年に刊行しました。

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ルートヴィヒ・エミール・グリム画「いばら姫(=眠れる森の美女)」等、1825年、東洋大学附属図書館蔵。

グリム童話は、二人が生きている間に第7版(1857年)まで刊行されますが、版を重ねるたびに、特にヴィルヘルムが、改編と改作を行うようになります。語り継がれてきたお話の中には、もともとは大人向けのものもあったので、子供には不似合いな描写を手直ししたのです。たとえば、妊娠をにおわせるようなちょっとエロティックな描写や、残酷すぎる描写です。タイトルが『子供と家庭のメルヒェン集』ですから、もっともなことではありますが、お話のありのままの姿の保存という、元来の収集の目的とは矛盾します。とはいえここは、最初は分からなかった挿絵の価値をだんだん認めていったのと同様に、考え方が少しずつ変化していったと捉えるべきでしょう。しかし兄のヤーコプは、オリジナリティを極端に大切にする人でした。大切にするあまり、さまざまな国の資料を使って論文を書く際に、それらをあえてドイツ語に翻訳しなかったのです。数カ国語を自在に操るヤーコプの論文は、われわれのようなグリム研究者泣かせの論文となりました。このように、オリジナリティを大切にする兄と、必要に応じて変わっていくことも大切だと考える弟。当然議論もしたでしょうが、お互いがお互いの良き理解者であったといえましょう。

翻訳が、翻訳者による1つの解釈であるならば、挿絵もまた、画家による1つの解釈です。解釈はあくまでも解釈であってオリジナルではない。とすれば、グリム童話に挿絵が付くことは、オリジナリティ重視のヤーコプには、もしかしたらもっての外だったかもしれません。しかし、口頭伝承とは、まるで伝言ゲームのように、誤解や変化というプロセスを内包したものと考えるべきです。そして、そう変化することこそが自然なのです。とすれば、「テキストを描いてみたい」という欲求が自然なものである限り、挿絵が施されていくのもまた自然の流れといえるでしょう。物事の「自然の流れ」、これもまた、二人が重視したイメージです。ですから、一人の人間がつくった創作文学よりは、民の間に自然に伝わってきた伝承文学の大切さを伝えたかったのでしょうね。

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カイ・ニールセン画「バラのつぼみ(=眠れる森の美女)」、1925年、個人蔵。

グリム童話の学び方、楽しみ方

グリム童話が好きな学生には、「本当のグリム童話への扉を開きたかったら、ぜひドイツ語を学んでください」とよくいいます。日本語訳は、グリム童話への最初の入口にすぎません。すばらしい翻訳はたくさんありますが、翻訳はあくまでも1つの解釈です。さらに深く知りたいならば、オリジナルを自分で読んでいただきたいのです。たとえば、15番目のお話「ヘンゼルとグレーテル」の「お菓子の家」は、原語では「パンの家」なのです。ですから、ドイツの絵本ではこの家に、ドイツ人がよく食べる「ブレーツェル」という塩味のパンがほぼ必ず描き込まれます。一方、「お菓子の家」という和訳だけを読んで描かれた挿絵には、本当にスィーツな感じの家が多いのではないでしょうか。もちろん、それが悪いこととは思いません。きっと「自然の流れ」です。でも、本当の姿や真実を知ろうとするときに、他人の解釈に頼るだけではいけません。できれば本物に触れ、自分の目でその価値を確かめてほしい。だからこそ、原語ドイツ語に触れてみていただきたいのです。

また、グリム童話はよく残酷だといわれますが、その残酷の定義は一体何でしょう?グリム兄弟がカットした部分も確かにありますが、それでも、残酷だと思われる場面は残りました。でもなかには、しつけのため、約束を守らせるために、あえて残酷な罰を想定することもあるでしょう。「指切りげんまん」の「指切った」のように。ただし、実行してはいけません。あくまでも想定です。また、21世紀の日本人の考える残酷性と、『グリム童話』が世に出た19世紀ドイツにおける残酷性は、同じとは限りません。現代の「残酷」の定義をグリム童話に当てはめるのではなく、グリムの時代と文化をまず眺めてみてみる、つまり、「一度その時代背景や文化的背景に落とし込んでみる」という作業が必要です。これもまた、オリジナルに触れる作業です。グリムを研究するのなら、グリムに寄り添ってほしい。これが、グリム童話のもう1つの楽しみ方です。

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アーサー・ラッカム画「ヘンゼルとグレーテル」、1920年(1909年)、東洋大学附属図書館蔵。

とはいえ、「翻訳比較」という楽しみ方もあります。決定版第7版の完訳は複数出版されていますので、ゼミでは、それを一語ずつ表にして⽐較をすることがあります。たとえば、木にリンゴが実っている様子を、「リンゴがたわわに実った」と訳しているものと、「リンゴが鈴なりだった」と訳しているもの。どちらも間違いではありません。でもそのニュアンスの違いを調べていく。すると、「たわわ」だと実の重さが重視されおり、「鈴なり」だと「神楽鈴のようにたくさん」という意味で視覚が重視されていることに気付きます。こうして訳を相互比較しつつ、その翻訳者が表現したい世界観を鮮明にしていくという楽しみ方もあるのです。しかし、その訳が正しいのか正しくないのかは、やはり最後にドイツ語をみて判断することになりますね。

アニメ化されたり映画化されたりしたもの、つまりスピンオフとオリジナルとの比較もまた、オリジナルを知らないと、なかなかうまくはいきません。たとえば、グリム童話53番目のお話「白雪姫」で、姫は王子のキスでは目覚めないのをご存知ですか?12番目のお話「ラプンツェル」で塔の上に閉じ込められるのは、実の両親が彼女を手放す約束をしたからだということをご存知ですか?まだまだありますので、ぜひ自分で探してください。

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エドマンド・デュラック画「バドゥーラ姫」、1913年、個人蔵。

そしてもちろん挿絵も、グリム童話の楽しみの1つです。たとえば今回の展覧会の、1.日本の浮世絵の影響を受けているクレイン、2.森を好んで描き、妖精の無気味さとかわいさを繊細なタッチで描いたラッカム、3.ロココとアラビアンと日本の何ともいえないミックスが見てとれるデュラック、5.北欧テイストと中国テイストが混在しているニールセン。この四人の画家たちの、物語を叙述し装飾するだけでなく、それぞれが生きた時代の流行が透けて見えるような美しい挿絵たちに、癒された人も多かったと思います。
西洋におけるオリエンタリズムとは、いわば「仮想東洋」を描くことともいえます。そこには、たとえば浮世絵のような松の木の下に、ターバンを巻いたアラビアンな人物が描かれたり、中国風といいながら日本の畳や床の間のような空間が描かれたりといった「ちぐはぐ」も目立ちます。変だと思うかもしれませんが視点を変えてみると、たとえば現代の日本人が「シンデレラ」という「西洋」の挿絵を描くとき、女性の衣装はロココ、男性の衣装はヴィクトリア朝、建物はゴシックといった「ちぐはぐ」もまたあったりするのです。でもそれは批判すべき事柄ではありません。そこに溢れているのはきっと、挿絵画家のイメージした「仮想西洋」なのであり、そのような想像力こそが大切なのですから。

挿絵がいざなう物語の世界は、100%現実でも100%虚構でもなく、双方が微妙に入り混じっている世界なのです。現実と非現実が入り混じっているとは、メルヒェンの世界そのものにもいえることです。それらの「混ざり方」あるいは「ちぐはぐ」のバランスを見極め分析することは、「ちぐはぐ」をただ批判するよりも難しいかもしれませんが、数倍も楽しく、広い視野へと必ず導いてくれます。お話に出てくる小さな子供や名もない大人たちの「生きざま」を私たちに提示しつつ、しかも、豊かな想像力や柔軟な判断力の必要性も教えてくれる、これが『グリム童話』なのです。

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大野 寿子教授文学部 国際文化コミュニケーション学科

  • 専門:ドイツ文学文化、伝承文学、文化人類学・民俗学
  • 研究テーマ:グリム童話における「森」、「異界」、「魔女」など。グリム兄弟における自然、森と人間の文化史、伝承文学とエコロジー教育など。

清王朝の末期は国際社会の中で没落、1911年の辛亥革命によって清朝が滅亡するのは歴史的必然というイメージがあります。しかし近代中国の写真史料からは、異なるイメージも読み取れます。
西洋の服装を身にまとったさまざまな写真から見て取れる清朝末期の実情は、近代的改革を推し進めている姿です。当時の中国は植民地化の危機を克服するため、近代国家を目指して立憲政治制度導入、近代教育制度確率といったさまざまな改革が行われました。また、国民皆兵化を進めるため、皇族も自ら軍人としての模範的な役割を果たさなければなりませんでした。西洋の軍服を着た皇族の写真から、そうした当時の背景が浮かび上がってきます。
一般的に、清朝は滅亡すべくして滅亡したというイメージのもと、語られてきました。しかし実際にはそのイメージ一色で塗り潰されるとは限らないことが、残された史料から分かります。1枚の史料から「なぜだろう」という疑問を持ち、そこから研究に取り組んでいくと、一般的なイメージと違った意外な実像を明らかにできるかもしれません。

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千葉 正史教授文学部 史学科

  • 専門:中国近代史

「ファイナンス」は、時間軸上において、稀少資源をいかに分配するかを研究する学問です。「時間軸上」とは過去、現在と将来の間のこと、稀少資源とは支配するお金や資産、つまり富を指します。
ファイナンスの意思決定に関わる経済主体としては家計、企業、政府があります。経済主体間の資金の流れとしては、企業は家計から資本提供を受けてビジネスをし、得た利益を家計に配当・利子として戻します。同時に、家計は企業に労働を提供、企業は労働対価として給料を支払います。政府には企業から税金、家計からは税金や国債の購入によって資金が流れます。政府はそれを使って年金、社会保障、国債利子元本を返済します。また、ファイナンスは富の創出を助けているほか、公的年金制度によって定年後の生活が保障されるなど、将来の不安の解消にも役立っています。
ファイナンスの目的とは、将来の富が最大になるよう資源の配分を行うこと、そして効率性の追求によって豊かな社会を創ることです。このような経済的利益のほか、環境保全、社会的責任の役割も担っているのです。

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董 晶輝(ドン ジンフイ)教授経営学部 会計ファイナンス学科

  • 専門:経営学、証券投資論

「いずれは好きなスポーツに関する仕事に就きたい」との考えから、ライフデザイン学部健康スポーツ学科を選んだ小倉光平さん。大学の授業やサークルでの代表経験を通じて自らの関心や視野を広げていった結果、「本当にやりがいと興味を持って活躍できる仕事」として文部科学省を選びました。学業に加えてサークル活動やアルバイトにも励んだ大学生活は「忙しかったけれど自分なりにがんばったので、悔いなく終わることができる4年間だった」と、語ってくれました。

多くを学びながら、テニスサークルにも熱中

健康スポーツ学科は、「スポーツを通して人々の暮らしを豊かにしたり、スポーツが持つ可能性や素晴らしさを学ぶ」ための学科です。私は小学生の頃からずっとテニスをしてきて、いずれはスポーツに関わる職業に就きたいと考えていたのでこの学科を選びました。授業では実際に体を動かす科目のほか、体の仕組みや筋肉の付き方を知り、その動かし方やメンテナンス方法を学んだり、教員免許を取るための講座をうけたりするなど、さまざまなカリキュラムを履修しました。

一方で、テニスサークルにも入会しました。高校のテニス部では常に「勝たなければいけない」というプレッシャーと隣り合わせだったので、大学では学業などほかのことも含めて「学生生活を楽しむ」ためにサークル活動を選んだのです。しかし、いざ何も考えずに純粋にテニスをしてみると、肩の力が抜けてかえってうまくプレーできることに気付きました。まるで新しいスポーツに出会ったかのような新鮮な感覚で、すっかりテニスに熱中してしまいました。

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サークル代表経験を経て、成長を実感

入学した当初は「体育の教員か、トレーナーになれたら」と考えて授業を受けていたのですが、2年生の前期に先生から「市役所などで地域の人々に健康やスポーツの指導をする仕事もある」と教えられ、それからは地方自治体など公務員の仕事にも興味を持つようになりました。いろいろと調べていくうちに、スポーツを通じて老若男女さまざまな人にアプローチしたり、地域の活性化にスポーツを役立てる仕事の方が、教職よりも自分には合っているのではないかと考えるようになったのです。

3年生の6月から公務員試験の勉強を始めました。その頃はテニスサークルの代表も務めていましたし、一人暮らしなのでアルバイトもしていて忙しい毎日でした。100人を超える規模のテニスサークルは、技術を向上させたい人もいれば、メンバーとのコミュニケーションも含めてテニスを楽しみたい人、中にはテニスだけでは物足りないという人まで十人十色。多くのメンバーの要望に応えつつ、サークルとしての一体感を出すために、楽しく参加してもらえるイベントを実施したり、別の球技大会を開いたりと知恵を絞りました。

こうした経験から、時には自分を抑えて全体を見渡せるようになりましたし、大勢の前で話す経験を重ねたことから度胸も付き、コミュニケーション能力も磨かれたと感じています。後の就職活動で、知らない人同士で集まっていてもすぐに仲良くなれたり、面接でうまく話せるようになったりしたのも、サークルの代表を務めた経験が生きていると思います。

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より大きな世界観でスポーツに関わるため、文部科学省へ

公務員試験は4年生の6月からで、都内の特別区や県庁、区役所など、さまざまな試験を受け、周囲の勧めで国家公務員試験も受けました。ずっと「地方自治体で働きたい」という気持ちが強かったので、文部科学省を目指すようになったのは少し後になってからです。国家公務員試験に合格し、さまざまな省庁の仕事について調べ、志望動機を考えていくうちに、「子供やスポーツが好きな自分にとって文部科学省の仕事なら、より大きな世界観でスポーツに関わることができる。生涯を通してやりがいのある仕事にも出会えそうだ」と考えるようになりました。一緒に面接を受けた学生たちの考えが自分の考えと近かったことや、人事担当者とじっくり話をして、安心して働けそうだと感じた事も大きかったですね。

振り返ってみると、大学生活は自分なりにがんばった4年間だったと感じています。「やりたい仕事」を見極めることもできましたし、後悔はないですね。後輩たちには、悔いのない大学生活を送りながら、何年かかってでも「やりたい仕事」に挑戦してほしい、と伝えたいですね。

小倉 光平さんライフデザイン学部 健康スポーツ学科 4年

  • 内定先:文部科学省
  • 所属ゼミナール:岩本紗由美ゼミナール
  • 出身校:群馬県立伊勢崎高等学校

破天荒な検察官が主人公のテレビドラマ『HERO』のファンだったという法学部法律学科の廣田千尋さん。「法律を通じて社会を見たい、法律をもっと身近に感じたい」という思いから、ごく自然に法学部を選びました。専門的な勉強だけでなく、アルバイト、外国人留学生との交流、そして自らの留学体験を通じて、たくさんのことを大学で学んだと言います。

東洋大で初めて知った異文化体験の面白さ

幼い頃からニュース番組を見るのが好きで、世の中で起こる出来事全てに法律が絡んでいることをなんとなく意識していました。東洋大学の法学部を選んだのは、自分が身近に感じている法律を通じて社会を見たいという思いが強かったからです。

法学部にいながらもグローバルなことを学びたいと思った場合、法学部のカリキュラムの中に国際法や外国法といった授業もありますし、外国人や外国文化に関わる機会もあります。例えば、学内には「English Community Zone(ECZ)」というスペースがあります。ここは、英語を身に付けたい学生が集まってECZのスタッフや留学生と英語で会話をするなど、気軽に英語に触れることのできる場。ECZは日本語使用禁止ですから、日本にいながら留学に近い体験ができるということで、2年生の頃からよく行っていましたね。そこで出会ったアメリカ人やイギリス人の留学生からたくさんの刺激を受けました。

彼らの最初の印象は、日本人に比べて自分の意見をしっかりと持ち、はっきり言うことでした。そして勉強熱心なこと。自分とあまり年齢が変わらないのに、外国に来ても堂々としている点に驚かされました。その頃から、自分も海外の文化に触れてみたいという思いが次第に強まっていったのです。

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留学で得たのは、相手を知るための積極性

単位が認定される留学プログラムもありましたが、私はあえて1年間休学し、私費留学することを選びました。具体的に準備を始めたのは3年生の半ば頃からで、3年生修了後の4月、アメリカのカリフォルニアに渡りました。

初めてのアメリカは驚きの連続でした。最初は英語が全然分かりませんでしたが、アジア系やラテン系の人も多く、英語が話せなくても、とにかくコミュニケーションを取ろうとする彼らのバイタリティに圧倒されました。私が通ったのは、サンフランシスコの語学学校で、午前中に文法の授業があり、午後にオーラルコミュニケーションという授業スタイルでした。日本の学校とは違い、授業では常に意見を求められます。文法の授業でも政治の話になったりプレゼンテーションをしたり、自分で話す機会が多いことに驚きました。

特に学んだのは「相手のことを知ろうとする姿勢の大切さ」でした。異文化の人たちとコミュニケーションを取る際に、語学力を磨くだけでは不十分です。例えば宗教のことでも、自分の常識と相手の常識はまったく違います。何事についても自ら調べ、積極的に情報を取りに行くように努めました。約8カ月の留学体験を通じて一番身に付いたのは、そうした積極性だと思います。

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日本の製品を世界に広める役割を担いたい

1年間休学したため途中のブランクはありますが、私が所属したのは会社法のゼミナールです。留学から帰ってきた後は、ゼミで企業を取り巻くさまざまな問題を学びました。会社法の面白さは、日々テレビや新聞で見聞きするニュースが、全て法律に関わりがあると実感できることです。

企業の不祥事も、合併や株式上場も、さまざまな法律が関係しています。実際に話題になったニュースをテーマに掘り下げて学ぶことが興味深かったですし、それこそが、私が法学部を選んだ原点でもあります。ゼミは受け身の姿勢で何かを学ぶ場ではなく自主性が大事ですから、「自ら積極的に情報を取りに行く」という留学で培った力も役に立ちました。

就職に関しては、以前から繊維業界に進みたいと思っていました。もともとファッション業界に興味があったことと、日本の高品質な製品を世界に広める仕事に魅力を感じていたからです。幸運なことに、大手の繊維商社から内定をいただきました。卒業後は、留学生との交流や留学体験を通じて得たコミュニケーション力を発揮し、“メイドインジャパン”の素晴らしさを世界中に発信していきたいと思っています。

廣田 千尋さん法学部 法律学科 4年

  • 内定先:モリリン株式会社
  • 所属ゼミナール:遠藤喜佳ゼミナール
  • 出身校:熊本県立熊本北高等学校

フランス語演習Ⅰでは、会話を中心に授業を進めています。文法の授業で学んだ仕組みを実際に使うことで、フランス語の音を意識するようにします。
この授業では、「中性代名詞」が日常の中でどのように使われているかをテーマとしました。先生と学生が会話したのち、学生同士がお互いに質問し合います。教室にいる学生全員が先生と会話を交わすことが時間的に難しくても、学生同士で話すことで、全員が確実にフランス語を話すことになります。また、先生とでは緊張してしまう学生も、学生同士ならスムーズに会話できるかもしれません。そして最後は交わした会話を暗記し、学生に発表してもらいました。同じ教室でフランス語を一緒に学ぶ同級生の発表を聞くことで、学生たちは「自分にもできる」という気持ちになれます。
高校で全ての生徒が英語を学び、世界のビジョンを持っていると思いますが、「国際化=英語化」ではありません。英語以外の言語や文化も学ぶべきです。そういう意味で、フランス語を教え、フランス語圏の文化を伝えることができるのは、うれしく、また大切なことだと思っています。

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ブランシャー ニコラ准教授経済学部 総合政策学科

  • 担当科目:フランス語演習Ⅰ・Ⅱ、時事フランス語、検定フランス語、 比較都市計画、ヨーロッパの言語と文化Ⅰ

「カバラー」とは、ユダヤ神秘主義のことです。創世記には、「初めに、神は天地を創造された」と書かれていますが、それよりさらに初めの段階で、神が自分自身の内部に凝縮し、ヨッドと呼ばれる点になりました。これがヘブライ語の1文字目であり、この点がさく裂し、自己展開して、22の文字ができあがりました。この22の文字が組み合わされ、ユダヤ教の聖典である「トーラー」を構成しています。
カバリストは神の痕跡と言われるトーラーを「わからないように」読みます。通常の文字としてトーラーを読むと、解釈には限りがあり、1つの意味しか見えません。しかし、カバラーは神の痕跡を読み解くため、トーラーの文字から別の意味を発見しようとします。そのため、文字を数値に変換する、つまり、意味の文脈を一度断ち切ってまったく別の文脈を形成するという手法を取ります。そうすると、人間が想像すらできない意味が現れてきてびっくりします。その結果、自分が想定していなかった自分になることが、カバラーの深い目的でもあるのです。

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永井 晋教授文学部 哲学科

  • 専門:哲学・現象学

高校時代、英語が得意で国際関係の学問を学びたかったという国際地域学部国際地域学科の成田篤史さん。子供の頃からいろいろなことに挑戦するのが大好きな性格で、大学入学後もサークルやアルバイト、留学と、多くのことにチャレンジ。そんな成田さんは「いくつかの選択肢があったら、自分を成長させてくれそうな方を選ぶ」と言い切ります。難関の奨学金獲得へ向けた準備や海外留学を通じて得た自信は、将来の活躍を大きくサポートするはずです。

漠然とした海外への興味が具体的な目標に

幼い頃からアメリカの映画やスポーツが好きで、英語もよく勉強していました。大学に入学したら、国際政治などグローバルな分野の学問を学びたいと思い、国際地域学部を選びました。この学部は、国際協力や地域活性化などを学際的に学びます。いろいろな分野を幅広く学べることも、私にとって魅力的でした。

入学後は、同じ学科の友達やテニスサークルの仲間ができ、大学生活は想像以上に楽しくなっていきました。そんなときに大学の留学希望者向けの奨学金制度について知り、次第に留学への熱が高まっていきました。大学の海外留学促進奨学金は、留学の目的や期間に合わせて「ファーストステップ型」「チャレンジ型」「アクティブ型」「グローバルリーダー型」の4種類があります。私は「長期留学を対象にしたグローバルリーダー型奨学金を獲得して留学しよう」と決心しました。しかし、わずか5名ほどしか募集しないこの奨学金を得るには、優秀な学業成績を残すなど厳しい選考を通らなければなりません。「絶対、獲得する」その決意から、私の挑戦が始まったのです。

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努力の結果として奨学金を獲得し、アメリカへ

最難関のグローバルリーダー型奨学金は150万円の給付金を受けられますが、英語力はTOEIC800点以上、学業の評点平均4.6以上の成績を残す必要があります。そこで私は、毎朝早くから大学近くのファストフード店で勉強し、授業が終わった後は図書館にこもって閉館時間まで勉強する、という生活を続けました。

受験勉強が終わったばかりで、また勉強の毎日になるのは少し辛かったですが、「奨学金がもらえなかったら留学には行かない」という覚悟が、私の心を支えていました。そのかいあって、最終的にTOEICは895点を取り、2年生までの学業成績も満足の行く結果を残し、選考に通ることができました。努力が実ったことはとてもうれしかったですし、その後の留学や就職活動でも自分を支える大きな糧となりました。

留学先には、アメリカ・アーカンソー州のヘンドリックスカレッジを選びました。大学の交換留学の協定校は、ロサンゼルスなど日本人がたくさん集まる地域が多いのですが、私はあえて日本人がいないところを選んで、英語漬けの生活を送ろうと決めていました。

ヘンドリックスカレッジでは、アメリカの貧困問題や人種問題、アメリカから見た日本文化などの授業を履修しましたが、授業の進め方が日本とはまるで違います。大教室の講義形式ではなく、少人数制のディスカッション方式が基本。予習の段階で、1科目50~60ページくらいのテキストを毎日読み込み、ある程度理解したうえでディスカッションに参加し、自分の意見を述べるという授業です。最初はまったくついていけなくて苦労しましたが、わからなくても恥ずかしがらず積極的に発言することで、英語力も身に付いていったのだと思います。おかげで、帰国後はTOEICのスコアが920点まで上がりました。

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積極性が認められ、その経験は自信となる

留学体験を通じて学んだことは、「自分でやれることは全部やろう」という気持ちの大切さです。授業についていけないときも、わからなければ何度でも先生や友達に食い下がって納得できるまで聞く。そういう姿勢で臨むことで、少しずつ周りから認められるようになりました。先生がほかの留学生の前で「篤史ががんばっているんだから、みんなももっと発言しようよ」と、手本にされたときはうれしかったですね。

この4年間で、私にとって一番大きな出来事は留学体験でしたが、大学生活ではサークル活動やアルバイトなど学業以外でもいろいろな経験ができます。その中で、私が守ってきたことは、「自分の前にいくつかの選択肢があったら、迷わず自分を成長させてくれそうな方を選ぶ」ということ。それが大学生活を充実させられた要因だと、確信しているからです。

社会人になったら英語は必須だと思い、がんばってきた結果、英語が社内公用語である楽天株式会社から内定をいただきました。楽天の企業理念に「常に前進」という言葉がありますが、社会に出てからもその精神で前に進み、成長を続けていきたいと考えています。

成田 篤史さん国際地域学部 国際地域学科 4年

  • 内定先:楽天株式会社
  • 所属ゼミナール:藪長千乃ゼミナール
  • 出身校:埼玉県立浦和高等学校

もともと積極的に挑戦するタイプだったという総合情報学部総合情報学科の野口明日香さん。この4年間で“成長した”と思えるのは、「行動を起こすことは大事だと認識し、自ら行動を起こせるようになったこと」だと話します。東洋大学に入学してから、海外での農作業やオーケストラのボランティア活動をはじめ、「人を喜ばせること」を学ぶためのアルバイト、研究室でのアプリ作成など、数多くの経験を通して、希望していた職種での内定を得ることができました。

理工系と文系を学びたいから、この学部へ

私が在籍する総合情報学部総合情報学科は、理工系と文系を融合した学びを特長とするため、幅広い領域から学ぶことができます。高校生の頃はパソコンに触ることが好きで、「プログラミングを学びたい」という気持ちから、オープンキャンパスでは理工学部を見学したのですが、同じキャンパスに総合情報学部もあることを知りました。その後、学部を選ぶにあたり、総合情報学部について調べると、理工系以外の心理学や情報メディア学といった分野まで学ぶことができることがわかり、総合情報学部に進学しようと決めました。

総合情報学部で学ぶ領域はとても広いため、同じ学部の学生でも、研究室の選択によっては専門性がまったく違います。私はアプリケーション開発の研究室に所属していますが、どちらかというと、理系志向の学生が多く、学びたかったプログラミングの知識や技術も身に付きました。しかし、心理学の研究室に所属する友人が学んでいる内容はまったく別の分野で、プログラミングに触れることもありません。私は現在、ピアノの鍵盤アプリの作成に取り組んでいます。初めはアプリケーションを作成するなど、自分には難しいのではないかと思いましたが、研究を進めていくうちに、考えていたほどの難しさは感じずに作ることができ、自分でも驚くほどでした。卒業を前にした今、振り返ってみても、総合情報学部は理工系と文系の両方を学びたかった私には、最適な選択だったと感じています。

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海外ボランティアの経験が“気付き”をくれた

大学生活を送るなかでは、海外でのボランティア活動にも力を注ぎました。最初に参加したのは、2年生のときで、アイスランドの国際ボランティアでした。農作業や栽培のボランティアをいろいろな国から来た人たちと一緒に行うという活動で、英語は苦手なのですが、勇気を出して一人で飛び込んでみました。

メンバーは約10人。毎晩一人ずつ自国の紹介をしながら、お互いの国の事情を知ることができて興味深かったです。参加する前は、海外ボランティアには若い人が参加するというイメージを持っていましたが、実際には50代や60代の方もいらっしゃいました。イスラエルから来たおばあさんは、日本の着物に興味があるそうで、「あなたが振り袖を着ている写真を送ってほしい」と頼まれました。このボランティア活動を通して、私はボランティア自体に興味があるというより、「いろいろな国の人と交流することが好きなんだ」と、自分のことを1つ理解できたような気がしました。それからは本当に国際交流に夢中になり、卒業までに10カ国ほど訪れ、見聞を広げました。

3年生のときは、「UUUオーケストラ」というボランティアオーケストラに参加しました。私は中学生の頃に吹奏楽部でトロンボーンを吹いていた経験もあり、「1度もオーケストラを聴いたことがないフィリピンの子供たちに音楽を届けて、思い出作りの手伝いをしよう」という目的に感銘を受けたからです。全国から集まったメンバーと練習を重ねてフィリピンへ向かい、1日に学校を2〜3校回って、約10日間の演奏活動をしてきました。このオーケストラボランティアを通して、「どのようにしたら子供たちが喜んでくれるのか」を考え、披露し、反応が良いと自分たちも大きな感動を得られる、という経験をしました。この経験が、私にとっては将来の自分の目標を定めるきっかけになったと思います。

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「ものづくり」&「人を喜ばせる」仕事に臨む

大学での学びとボランティア経験を通じて、「ものづくり」と「人を喜ばせること」が好きだということが明確になりました。そこで、「人を喜ばせるサプライズやサービス」をモットーとしている飲食店でのアルバイトも始めました。アルバイトを通じて学んだのは、お客様をメニューで喜ばせたり、コミュニケーションで楽しませたり、サービスの工夫で驚かせたりといった、さまざまな“人を喜ばせること”でした。

内定先の株式会社ぐるなびには、希望通り技術職採用でシステムエンジニアとして内定をいただきました。私が、ものづくりが好きだということや、海外に関する話題をたくさん持っていること、「人を喜ばせること」が好きなこと、さらにはアルバイトを通じて食文化の知識も深まっていたことなどを評価していただけたのだと思います。

大学生活4年間を経て、私は「行動を起こすこと」の大切さを身をもって理解し、実際に自ら行動を起こせるようになりました。これからも興味を持ったことには積極的にチャレンジして、たくさんの人と出会い、その知見を仕事にも人生にも生かしていきたいと思っています。

野口 明日香さん総合情報学部 総合情報学科 4年

  • 内定先:株式会社ぐるなび
  • 所属ゼミナール:塩谷隆二研究室(アプリケーション開発)
  • 出身校:東京都立竹早高等学校

公文書とは、公務員が自分の仕事をするために、作成・取得する文書のことです。国民が公務員などの仕事をチェックしたり過去の事実・歴史・文化・伝統を継承したりするために利用することもできます。公文書は法律の下で管理されるのが当たり前なのですが、それができていないために紛失や誤廃棄といった問題が発生します。2007年に発覚した年金記録問題は、公文書管理の典型的な失敗例です。
正しい公文書管理とは、作るべき文書を作ること、取得すべき文書を取得すること、誰もがすぐに探せるようにしておくこと、保存期間が満了したら廃棄すべきものは廃棄し、残すべきものは残すこと、誰もが利用できるようにしておくことです。そして、これらを文書の持ち主である国民の同意のもとで管理する必要があります。
現在の公文書管理法では、基本的に、国の行政機関・独立行政法人等、国立公文書館などの文書しか規定されていません。保存期間が法律で定められていない、地方公共団体の文書管理は住民の同意がないものが多いなど、公文書管理には課題もあります。自分の暮らす地方公共団体の文書がどのように管理されているのか、調べてみましょう。

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早川 和宏教授法学部 法律学科

  • 専門:公文書管理、情報公開、個人情報保護

入学試験実施に伴い、以下のように入構措置(大学構内への入構禁止)をとらせて頂きますのでご注意ください。
解除の時間については、不測の事態(交通機関の遅れ等)により変更になる場合があります。

2016年2月

2月1日(月) 16:00まで
実施場所 白山キャンパス・朝霞キャンパス・川越キャンパス

2月6日(土) 終日
実施場所 白山キャンパス・朝霞キャンパス

2月7日(日) 終日
実施場所 白山キャンパス・朝霞キャンパス

2月8日(月) 終日
実施場所 白山キャンパス・朝霞キャンパス

2月9日(火) 終日
実施場所 白山キャンパス・朝霞キャンパス

2月10日(水) 終日
実施場所 白山キャンパス・朝霞キャンパス

2月11日(木・祝) 17:00まで
実施場所 白山キャンパス・朝霞キャンパス

2月26日(金) 終日
実施場所 白山キャンパス

2月27日(土) 16:00まで
実施場所 白山キャンパス

2016年3月

3月4日(金) 終日
実施場所 白山キャンパス

3月5日(土) 終日
実施場所 白山キャンパス

3月6日(日) 17:00まで
実施場所 白山キャンパス

その他、各キャンパスの事情により変更となる場合があります。

保存および印刷の際は、下記PDFをご活用ください。