創設者・井上円了、その人となり

創設者・井上円了とは、どのような人物だったのでしょうか。

井上円了───
「諸学の基礎は哲学にあり」という教育理念を掲げ、
「余資なく優暇なき者のために教育の機会を開放する」という旨趣のもと、
29歳という若さで私立「哲学館」を創立しました。
ここでは、井上円了の人物像を5つのエピソードで紹介します。

episode1 つねに冷静沈着で理性的 「風災・火災・人災」─その人生を襲った三大厄日

麟祥院教場の一室「哲学館初めての授業が行われた場所」

明治20年(1887)、29歳という若さで「私立哲学館」を創設、現在の東洋大学を誕生させた井上円了ですが、その人生は、けっして順風満帆ではありませんでした。のちに、自身が「三大厄日」と語ったように、哲学館創設からわずか15年の間に、「風災」「火災」「人災」と呼ばれるアクシデントに次々と直面します。

「風災」……明治22年(1889)9月11日、多数の死者を出すほどの大型台風が襲来し、完成目前の校舎が倒壊。この時、円了は、仏教公認運動のため京都の仏教教団を歴訪して遊説していましたが、電報で知らせを受けると、すぐに東京へ向かいました(途中、東海道線が不通となっていたので、四日市から横浜まで船を使用)。それからわずか一週間、9月20日には再建にとりかかり、10月31日に完成、翌日から新校舎での授業が始まりました。

「火災」……明治29年(1896)12月13日、隣接する中学校より出火し、哲学館の校舎が全焼します。ここでも円了は動じることなく、学生の「思いがけないことで肝をつぶされたでしょう」という見舞いの言葉にも、縁側に腰掛けたまま「荷物はほとんど出しましたよ」とだけ答えて、平然としていたそうです。校舎の再建は翌年4月に着手され、7月に新校舎完成、9月の新学年から授業が行われました。

「人災」……明治35年(1902)12月13日、「哲学館事件」が起こります。円了が事件の発生を知ったのは、第2回の世界旅行でロンドンに到着した直後の翌年1月。当初から哲学館事件が人為的に引き起こされたものと捉えていた円了は、学生が処分反対の公開演説会を開こうとしたときも、ロンドンから「静粛にせよ」という電報を打って中止させました。

この三大厄日で井上円了がとった行動は、いずれも迅速かつ合理的。周囲の話によれば、円了は「ふだんから理性的で冷静沈着なタイプだった」ようで、それを如実に物語るエピソードと言えるでしょう。

episode2 妖怪研究のパイオニア 「お化け博士」井上円了、水木しげるの漫画に登場!

哲学者として知られる井上円了は、「不思議」研究の第一人者でもあります。明治時代、日本で流行していた「こっくりさん」の謎を科学的に解明したのも円了でした。

科学が未発達であった明治時代の人々は、幽霊や人魂など、生活の中で経験する様々な不思議な現象を「妖怪」や「迷信」によるものと考えていました。円了は、合理的・実証的な精神に基づいて迷信の打破、妖怪の撲滅を図り、東京大学卒業後の明治19年(1886)大学内に「不思議研究会」を立ち上げます。雑誌広告を使って幽霊から諸精神病まで、広範囲な妖怪に関する情報を集め、古今東西の書物から妖怪に関する記事を抜き出す一方、全国各地を歩いて資料を集めました。

こうして、約10年間の調査研究の結果をまとめたものが『妖怪学講義』です。迷信の多かった当時の日本において妖怪研究は高く評価され、『妖怪学講義』は宮内大臣を通して明治天皇に奉呈されました。「お化け博士」、「妖怪博士」とも呼ばれた円了の徹底ぶりは、妖怪漫画家・水木しげるの著作『神秘家列伝』に紹介されるほどです。

哲学の伝道者として、円了は日本全国を巡る講演活動も行っていましたが、ここでも「妖怪・迷信」については人気があったようです。山形県村山市在住で、井上円了の講演を実際に聞いた人は、次のように当時を振り返っています。

「私は小学五年生、円了先生のお話はめずらしかった。親たちが迷信深く、夕方はさびしかった。暗くなるとこわかった。狐火、鬼火、人魂の話など、円了先生は絶対おっかないものでないと説かれた。それから大人たちのお茶飲み話でも、迷信らしいものがでると円了先生のお話になった。私は子供心に気持ちが明るくなった。」

ちなみに、三大厄日の「火災」に遭ったとき、校舎が「鬼門」にあったことを皮肉った新聞記事に対して、円了は「同じ敷地内にあった自宅は無事だったので、鬼門は火事とは無関係」と言っていたそうです。

episode3 明治の「大旅行家」 三度の世界旅行と延べ27年にわたる国内の巡回講演

世界一周をしていた頃の円了

“ちょんまげ” から “ざんぎり頭” へ時代が大きく変わった明治時代、井上円了は生涯に三度の海外旅行を、たった一人で経験しました(表1)。その範囲は全世界に及び、知らないことを自ら実際に確かめようとする円了の気概が感じられます。この視察で得られた見聞は、全国巡回講演により、哲学とともに一般民衆にも伝えられ、地方都市、農山村、漁村を中心に延べ27年間にわたって行われました。巡講の公演回数は約5,400回、聴衆動員数はおよそ140万人にのぼり、当時の交通事情を考えれば実に画期的な規模だったことが分かります。また、こうして各地の民衆のありのままを見た円了は、独創的な研究である『妖怪学講義』を誕生させました。

表1 井上円了の海外旅行

目的 出発日(期間) 年齢 旅行先(訪問順)
1 欧米の盛況関係・東洋学の研究状況の視察 明治21年6月9日
(1年間)
30歳 アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、エジプト、イエメン
2 インドの聖跡参拝、欧米の大学教育・経営、社会教育の視察 明治35年11月15日
(8カ月)
44歳 インド、イギリス、ウェールズ、スコットランド、アイルランド、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、スイス、アメリカ、カナダ
3 オーストラリア・アメリカ大陸等の視察旅行 明治44年4月1日
(9カ月)
53歳 オーストラリア、イギリス、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、スイス、フランス、スペイン、ポルトガル、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、チリ、ペルー、メキシコ

第1回:東回り……出発は明治21年(1888)。翌22年の明治憲法発布、23年の国会開設を控えた近代国家日本の黎明期です。円了は30歳で初めて世界を実際に見ることになりました。1年を超える世界視察の途中、パリではエッフェル塔が建設されたことで有名な世界万国博覧会(パリ万博)も見学しました。

第2回:西回り……明治35年(1902)横浜を出航し、太平洋を横断した第1回とは反対の西回りのコースで視察し、翌年帰着しました。円了は、特にイギリス各地をつぶさに視察し、「言論の自由」「人格の尊厳」「社会道徳」を肌で感じます。ロンドンに到着した直後の明治36年1月に届いた「哲学館事件」の知らせに心を痛め、予定を切り上げて帰国した円了は、今後の哲学館の方針を「(政府の力に頼らない)独立自活の精神をもって純然たる私立学校を開設する」こととしました。

第3回:南回り……明治44年(1911)4月に出発し、翌年1月までの約10カ月の世界視察でした。円了はこの旅行で、4回も赤道を横切り、北はノールカップ岬、南はホーン岬(マゼラン海峡)と、南北二つの極地に達するという、当時の日本人として稀な経験をしています。帰国後、『南半球五万哩』を発行して南半球の状況を報告。また、全国巡講の講演テーマにも加えて、民衆に世界で活躍する大切さを伝えました。

episode4 生涯学習の先駆者 民衆のために、社会教育に捧げ尽くした人生

東洋大学の創立者、不思議博士、明治時代の大旅行家である井上円了は、もう一つ、「生涯学習の先駆者」という顔もあります。これは、哲学を伝え、民衆に教育機会を開放するという哲学館創立の精神のもと、日本全国に足を運んで講演活動を行ったことに起因します。

全国巡講を始めたきっかけは、明治22年(1889)の風災にありました。大きな負債を負い、その打開策として、日本各地を講演して歩きながら哲学館の教育主旨を説明し、民衆から寄付を募ろうと計画したのです。実はこの頃、政治家として著名な勝海舟にその人格と能力を認められた井上円了は、さまざまな支援を受けていました。寄付金募集のアイデアも、勝海舟のこんな言葉に触発されて生まれたそうです。

「やることがよければ必ずできると思うのは間違いだ。いくらよい仕事でも、金がなくてはできない。幕府が倒れたのも金がなかったからだ。おまえさんも、そんな議論めいたことばかりいってないで、なんでも金をつくりなさい。」

明治23年から二期にわたって行われた全国巡講(※)の目的は、哲学の普及、そして哲学館の資金募集でした。その後、明治39年(1906)に学校から身を引いて一人の教育者となった井上円了は、修身教会運動の展開という新しいテーマで再び全国巡講を行い、その旅は大正8年に逝去するまで続きました。
※ 明治23~26年(第一期)、29年~35年(第二期)

修身教会とは、国民の倫理・道徳に関する生涯学習運動のことで、欧米の「言論の自由、人格の尊重、社会道徳の発達」をモデルにしたものです。第2回の世界旅行中、日本の国民性を向上する必要があると痛感した円了は、残りの人生のすべてを、国民道徳の向上に捧げたのです。

61歳の人生において、24年間に3,600以上にわたり全国各地で講演を展開した円了の足跡は、現在の市町村の53%に残されており、 その記録は15冊の『南船北馬集』などに収められています。

episode5 名を捨てて実を取る やわらか頭でオープンマインドな教育方針を貫く

井上円了の生い立ちはまさにエリートそのものでしたが、富や権力にはいっさい目を向けず、またそうした力に頼ることもなく、民間の一教育者として生涯を終えました。その姿勢はそのまま、あらゆる枠や規制、迷信にさえとらわれない、個人の「ものの見方・考え方」を育てようとした円了の教育方針に見てとれます。

例えば、円了が教育の対象にしたのは、選ばれた一部の裕福なエリートではなく、「余資なく優暇なき」人々でした。日本という国全体が発展するには、様々な理由から大学教育を受けられない人にも学ぶ機会を与えるべきと考え、出版事業、「哲学館講義録」を使った通信教育、市民のための日曜講義などを始めます。また、教育手段として「芸術」を活用することを日露戦争の最中に提唱するなど、現代のベンチャー企業にも通じる柔軟な発想で、独自の教育論を展開していきました。

教育の在り方という意味では、知識を身につけるだけでなく、感性を磨き人間性を高めるような教育も必要と考え、哲学館に寄宿舎をつくり、外遊中に見たイギリス家庭の団らんにヒントを得た「茶会」を開いてその育成に努めます。「対話の精神」を大切にしていた円了らしく、茶会ではけっして自分の考えを強制せず、自分の意見は述べても、その是非については学生個人の自覚と選択に任せていました。後年の資料には、土、日の茶会の雰囲気がこう記されています。

「(先生は)慈父のごとき暖かいお心持ちで、いろいろと学問上、修養上のお話をなされた。この土曜日と日曜日の会合が、舎生一同のもっとも誇りとしかつ楽しみとするところであった」

常々、学生たちに「広い視野からものの見方、考え方を学ぶように」と教えていた円了は、同時に、新しいことを積極的に学ぶ姿勢も大事にしていました。その開かれた精神は三度の世界旅行にも表れていますが、ある時には欧米留学から帰国したばかりの人を講師に招き、自ら学生と一緒に講義を聴いたりもしていたそうです。